古賀史健「読書はさみしい作者とさみしい読者がつながる行為」。“書く/読む”を通して「ひとりの時間づくり」を勧める理由【『さみしい夜のページをめくれ』インタビュー】
公開日:2025/4/28
詩人の言葉に「感じた何か」が正解

――本作は小説でありながら、たくさんの本が劇中で紹介されているブックガイドにもなっています。どのように作品をセレクトしたのでしょうか?
古賀:トータルで100冊近い作品を紹介していますが、そのためにたくさんの本をひたすら読み込みました。過去に読んだものもあれば、本作のために初めて読んだ作品もあります。作中の良いと思ったフレーズをExcelにまとめて「ここにこういう言葉が欲しいな」という箇所に、物語の都合に合わせてはめていったという感じです。
――全編を通して長田弘さんの詩の断片がカードとして登場し、作品全体を覆うメッセージのように読みました。どのようにこの扱い方を決めたのでしょうか?
古賀:詩はどうしても紹介したかったのですが、詩人の言葉は切り取ると台なしになってしまうので、引用が難しいんですよね。できれば全部を引用したいけど、全部を引用するには長すぎる。どうしたらいいかなと考えたときに、あのカードのやり方を思いつきました。
――詩人の言葉をどうしても紹介したかったのはなぜですか?
古賀:「本を読みましょう」と言われたとき、小説、エッセイ、ビジネス書や新書はみんな思い浮かぶんだけど、詩集って抜け落ちやすいんですよね。でも僕にとっての詩人って、「日本語の最前線で、日本語の可能性を切り拓いている人たち」なんです。そんな彼らの言葉にちゃんと触れておくのは絶対に必要なことだと思っています。
それに、詩人の言葉って知識で対峙するものではないので、小中学生が読んでも何か感じるものがあるはずなんです。詩においては、その「感じた何か」が正解なので、小中学生にはぜひたくさんの詩に触れてほしいと思っています。
自分のために書かれたとしか思えない本

――本作のなかでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「難しい本」として登場します。本作を読んでドストエフスキーに手を伸ばす若い読者もいるんじゃないかと思いますが、このあたりの意図を教えてください。
古賀:ドストエフスキーやトルストイに代表されるロシア文学って、翻訳したときの言葉遣いがすごく面白い。面白いというか変なんです。その「変さ」を楽しんでほしいというか、書かれている内容が全部理解できなくても、初めてブルーチーズを食べたときのような「なんだか臭いけど、もしかしたらおいしいかも!」みたいな感触を味わってもらえるといいかなと思っています。
――本作のなかにこんなフレーズが登場します。「不意に運命の一冊と出会う。自分のために書かれたとしか思えない本に出会う。『この気持ちがわかるのは自分だけだ!』って感激するような本にね」古賀さん自身の実体験としてこのような本との出会いがあったのか、お聞きしたいです。
古賀:やっぱり1冊挙げるとドストエフスキーになってしまいますね。20歳ぐらいの頃に『罪と罰』を初めて読んだんですが、主人公・ラスコーリニコフは、自分が「天才か凡人か」って葛藤しているんです。まさに当時の僕は同じようなことで悩んでいて「俺にはなにか可能性があるんじゃないか。一発逆転できるんじゃねえか」と自分に対する変な期待があって。
そんな時に『罪と罰』と出会い、まさに「俺のことが書かれている!」と感じて、現実とフィクションの境目がなくなるような感覚を生まれて初めて味わったんです。
――その感覚は読んだときの瞬間風速的なものか、それとも何年も持ち続けていたのでしょうか。
古賀:結局、アドラー心理学に出会う29歳までその感覚を持ち続けていました。当時はすでにライターをやっていたのですが、「いつか俺にも芥川賞的な何かが訪れるのではないか」みたいな変な期待がずっとあって。小説なんか書いたこともないくせに(笑)。
――可能性だけはずっとあり続ける、みたいなことですか?
古賀:そうですね。アドラー心理学はその人の才能を問わずに「君に足りないのは才能ではなく、勇気なのだ」と、ガーンと言ってくれるんですよ。確かに、書かないのは賞に応募して落選するのが怖いからだし、結局俺には勇気がなかったんだなと気づかされたわけです。それまでずっと、ラスコーリニコフ的な悩みを抱えていました(笑)。