伊坂幸太郎の25年を8つの視点で振り返る。“誰も怖がらなくていい未来”を描いた伊坂作品の目指す世界【書評】
公開日:2025/5/31
※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2025年6月号からの転載です。

書評家・杉江松恋が語る伊坂幸太郎の四半世紀
多くの世代の読者を魅了してきた伊坂幸太郎。伊坂は25年間、作家としてどのような道のりを歩んできたのだろうか。本特集の締めくくりとして、伊坂幸太郎の軌跡を8つの視点で振り返ってみよう。
世界に対する根源的不安が伊坂幸太郎の中にある。
そのことを知った瞬間から伊坂はとても大事な作家になった。私にとって。いや、日本のミステリー、犯罪小説、大衆小説を好むすべての人にとって。
文=杉江松恋
デビュー作から光る独自性
第5回新潮ミステリー倶楽部賞を獲ったデビュー作『オーデュボンの祈り』は、喋るカカシが登場する、地続きだがこことは違うどこか、を舞台にした作品だった。愛読していた大江健三郎に強く影響され、ストーリーが整然と流れる体裁の良さよりも、どこかに引っかかりを覚えるような独自の個性を持った作品であることをこのころから目指していた。

伊坂作品に共通する“理不尽な暴力の影”
第2作『ラッシュライフ』では複数の物語を同時並行で走らせ、それをカットバックでつないでいくという技巧が用いられている。同作の冒頭には「金で買えないものはない」と豪語し、主人公の不安を煽り立てるような人物が登場する。日常を脅かす理不尽な暴力の影は、多くの伊坂作品に共通するモチーフなのである。

2003年の『重力ピエロ』が伊坂のメジャーデビュー作と言っていいだろう。奇矯な行動をする弟と彼を見守る兄を中心とする物語なのだが、穏やかでユーモアに満ちた家族小説として読んでいると、突然前述の暴力要素が作中に噴出してくる。その展開によって、ミステリーとしても強度が高められているのだ。『アヒルと鴨のコインロッカー』の発表も同年である。同作で伊坂は第25回吉川英治文学新人賞を受賞している。現在と過去の2つの時制を往復しながら2つの事件が綴られていくこの作品は、分類するならば犯罪小説と言うべきだろう。しかし既存の物語類型からは外れたところが多く、伊坂独自のプロットと言うしかない展開で進んでいく。誰も書いたことがない小説、を伊坂は追究し始めていた。


個性の強いキャラクター
それまでの作品でも強い個性の持ち主を登場させていたが、2004年の『チルドレン』における主役の一人、家裁調査官の陣内は伊坂にとって重要なキャラクターとなった。陣内は他人に左右されることなく、自身の方式を貫く。彼の言動が、物語の帰趨を左右するのだ。2005年の『砂漠』の西嶋など、個性の強いキャラクターが登場することが以降の伊坂作品における特徴の一つと見なされるようになっていく。


世界に対する根源的不安
2005年の『魔王』、2006年の『終末のフール』には共通点がある。前者では犬養舜二というポピュリストにより、歪んだ形に変容していく社会が描かれる。後者は小惑星の落下によって地球が3年後に破滅することが判明した後を描く連作小説だ。共通項は世界が終わってしまうことへの不安である。世界は終わる。しかも自分には見えない、手の届かないところで起きている何かによって。現在ネットに蔓延している陰謀論によく似て見えるが、伊坂の場合は幼少期に1999年第7の月に世界が終わるとしたノストラダムスの大予言に触れたことなどが原体験になっていると思われる。それが今も続いている。怖がりなのである。


同じように怖がりだと自称する作家が宮部みゆきである。宮部は『火車』『理由』『模倣犯』などの作品で、日常を侵食する理不尽な暴力を克明に描いた。怖いからこそ書くのだという。怖いから、その感情を催させるものの正体を見極めるために書く。そうした姿勢は伊坂にも共通しているように思う。世界は不公平にできていて、時として力の強いものが弱いものを虐げることがある。人を傷つける暴力は、あるとき突然降りかかってくる。それを防ぐことは残念ながらできない。そうした現実を受け止めた上で、でもなんとかできないか、と伊坂の描く登場人物たちは作品の中で模索する。
もう一つ重要な作品がある。2004年の『グラスホッパー』である。相手を自殺させる〈鯨〉や、対象を事故死や自殺に見せかけるのが得意な〈押し屋〉など、変わった能力を持つ殺し屋が登場する小説で、後に『マリアビートル』(2010年)、『AX アックス』(2017年)、『777 トリプルセブン』(2023年)など、シリーズものをほぼ手掛けない伊坂にしては珍しく、同一主人公ではないものの設定を同じくする連作が書かれることになった。『マリアビートル』は『ブレット・トレイン』の題名でハリウッドで映画化されており、『AX アックス』は英訳作品が英国推理作家協会のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞に日本人作家として初めてノミネートされた。犯罪小説家・伊坂幸太郎の名を世界に知らしめた作品となったのである。




少年小説ともいえる『チルドレン』の次に刊行されたということもあり、伊坂がこうした暴力小説を書くのか、と意外な印象を抱く読者も当時は多かったと記憶している。だが『グラスホッパー』で伊坂が試みたことは決して暴力賛美ではなく、むしろ正反対のことである。主人公の鈴木は、暴力で最愛の妻を奪われた過去のある人物だ。彼の目的は妻の仇を討つことなのだが、敵の暴力によって圧倒され、危機を迎える。その彼の視点から、世界がいかに危険に満ちており、生き抜くのが難しいかを描くことが『グラスホッパー』の主題であった。