伊坂幸太郎の25年を8つの視点で振り返る。“誰も怖がらなくていい未来”を描いた伊坂作品の目指す世界【書評】

ダ・ヴィンチ 今月号のコンテンツから

更新日:2025/6/2

挑戦を続ける第3期

 現在も続く第3期は、それまでやってこなかった方面への挑戦が目立つ時期である。2014年の『アイネクライネナハトムジーク』では、苦手だと公言していた恋愛小説を伊坂なりのやり方で書いた。2020年の『逆ソクラテス』では初めて純粋な少年小説を書き、この作品で第33回柴田錬三郎賞を受賞している。

『アイネクライネナハトムジーク』
『アイネクライネナハトムジーク』(幻冬舎文庫)660円(税込)
『逆ソクラテス』
『逆ソクラテス』(集英社文庫)792円(税込)

 いくつかの作品には続編も書かれた。『チルドレン』の続編である2016年の『サブマリン』、2017年の殺し屋シリーズ第3弾『AX アックス』などがあり、日本推理作家協会賞短編部門を受賞した連作集『死神の精度』の続編として2013年に『死神の浮力』も刊行された。この作品には作家にとって重要な主題が投入されている。自分の大事な人が死んでしまったらどうなるか、という恐怖と悲しみだ。そのことにより作品は、死神という超自然的存在が登場人物でありながら、読者に普遍性を感じさせるものとなった。伊坂はこの時期、自身にとって喪失の哀しみとは何よりも辛いものであることを再認識したのではないだろうか。2018年の『フーガはユーガ』なども、その意味で忘れがたい小説だ。

『サブマリン』
『サブマリン』(講談社文庫)726円(税込)
『死神の精度』
『死神の精度』(文春文庫)858円(税込)
『死神の浮力』
『死神の浮力』(文春文庫)1078円(税込)
『フーガはユーガ』
『フーガはユーガ』(実業之日本社)792円(税込)

“普通の生活”の尊さを書く健全さ

 2015年の書き下ろし『火星に住むつもりかい?』では、相互監視による規制でがんじがらめにされた社会が描かれた。ディストピアも伊坂がずっと書き続けている題材である。逃げようとしても行き場はない。それこそ「火星に住むつもりかい」と聞かれるような閉塞感なのだ。『モダンタイムス』の頃はまだ仮想の領域だった破滅が下手すれば到来しかねない状況があり、作家が炭鉱のカナリア、音もなく忍び寄る危機を鳴いて知らせる役割を担うことも多くなっている。普通の生活を喜ぶことができる幸せを、伊坂は尊いものとして書く。その健全さが読者を引き付けるのだ。

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『火星に住むつもりかい?』
『火星に住むつもりかい?』(光文社文庫)858円(税込)

近年の伊坂作品で最も胸を打たれたのは、2021年の『ペッパーズ・ゴースト』のラストシーンだ。主人公が見る青空を、小説の終点に定めて書いたという。どこまでも広がる青空のような、誰も怖がらなくていい未来を伊坂幸太郎は望む。

『ペッパーズ・ゴースト』
『ペッパーズ・ゴースト』(朝日文庫)946円(税込)

すぎえ・まつこい●1968年、東京都生まれ。文芸評論家、書評家、作家。推理小説の書評や映像作品のノベライズ小説執筆のかたわら、自ら落語会を主催するほどの演芸ファン。著書に『日本の犯罪小説』『芸人本書く派列伝』など多数。

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