心を病み休職した31歳・会社員が芥川賞を目指す。創作への熱が、読者の心を強く揺さぶるマンガ『あくたの死に際』【書評】
公開日:2025/6/20

絵を描く、立体物を制作する、そして文章を書く。そんな創作活動に没頭することは、クリエイターではなくとも経験したことがある人は多いはずだ。創作意欲の源泉となるのは、心の深いところから湧き上がる“熱”である。その熱が創作者を内側から燃え立たせる。しかし、その熱は儚く冷めてしまうことがある。思ったような出来にならなかったり、期待した成果を得られなかったりすると、その熱は失われていく。
『あくたの死に際』(竹屋まり子/小学館)は、創作する熱を取り戻していく男の艱難辛苦を描いた物語である。
主人公の黒田マコトは、学生時代に文芸サークルに所属していたが、就職を機に創作活動から遠ざかっていた。しかし、30歳を過ぎて再び小説を書き始める。創作を通じて味わう喜びと苦しみ、そして自己と向き合う深い対話の描写が、読者の心を強く揺さぶる。
本作は、現在創作をしている人はもちろん、かつて創作を試みたことのある人や、これから創作を始めてみたいと考える人、たとえ創作に興味を持つだけの人であっても、読む価値を感じられるだろう。
■人気作家が「書け」と煽ってくる!自分の中で見つけた創作への熱
黒田は、大企業に勤め結婚を意識する恋人もいるという、それなりに順調な人生を送っていた。しかし、ある日突然、通い慣れた会社への道がわからなくなってしまう。心が壊れてしまったのだ。黒田は休職し、療養の日々を送る。そんな折、偶然にも大学時代の文芸部での後輩である黄泉野季郎と再会する。
黄泉野は大学を卒業した後、人気作家として成功を収めていた。そのことを黒田も知っていたが、彼は黄泉野の小説を読むことができなかった。その理由は、黄泉野に対する嫉妬心。黒田は、文芸サークルで書かれた黄泉野の文章に嫉妬し、その感情に突き動かされて作品を書き上げる。その文章は、後にプロとなった黄泉野から「脳が焼かれると思うくらいに面白い」と評される力作であった。

黄泉野は黒田に「俺のことをどう思うか」と問いかける。それに対して黒田は、10年近くぶりに会う後輩に向かい、ぽつりと「殺したい」と呟く。その言葉を聞いた黄泉野は笑みを浮かべながら、「そう思うあなたは作家ですよ」「書いてくださいね」と、まるで挑発するように言う。



自分自身と向き合うことは並大抵のことではない。それは人間が、自分を守るために疲弊する感情を心の奥底に押し込めてしまう性質を持っているからだ。黒田は、文芸部時代の後輩に対する嫉妬心や、自らの創作と本気で向き合うことを抑え込んできた。しかし、黄泉野に煽られ、もう一度書く道を歩み始める。
黒田の文章を生み出す熱は失われていなかった。その熱は、創作の炎を再び燃やす。
■怖れを乗り越え創作の扉を開ける黒田と「真剣で本気」な人間たち
久しぶりに黒田が書き出した小説は、どうしようもない出来栄えだった。黄泉野にも「つまらない、これはひどい、何を怖がっているのか」と酷評される始末だ。
黒田は自分の中にある闇を見つめ、それを掘り下げて文章を書くための「扉」を開けようとする。だが、その試みは容易ではなかった。周囲からの無理解な声や、黒田の将来を心配する彼女の言葉が、彼の創作意欲をかき乱していたのだ。
「休職中少しやってみようか程度の軽い気持ちだった」「30を過ぎてプロ作家になろうだなんて思わない」と言い訳をする黒田。その態度に黄泉野は苛立ちを覚える。つまらない文章そのものよりも、その「ダセェ」姿勢に怒りを感じたのだ。
黒田はついに“怖れ”を乗り越え扉を開ける。そうして書き上げた小説『才鬼』は、その冒頭部分だけでプロの作家や編集者の目を引き付けた。問題はこの先だ。黒田が歩む道の先にあるのは厳しいプロの世界だ。そこには「真剣で本気」な人間しかいない。
黒田の才能に、執拗にこだわる黄泉野、その担当である敏腕編集者の犬養、そして初見で『才鬼』に心を奪われる女性編集者幸田。さらに、黒田が憧れている鬼河原貞雪や、新人水貴翠といったひと癖もふた癖もある作家も登場し、物語を彩っていく。
真剣で本気な人間の創作への熱は相乗効果をもたらす。黒田は彼らと出会い、書く思いを強くして次のステージへ進む。ただ「書きたい」から「認められたい」へ。すなわち文藝賞を狙うのだ。
あなたは本作から、立ち上がる勇気をもらえるだろうか。それとも内なる熱を呼び覚まされるだろうか。
文=古林恭