小さな哲学者/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙#13

文芸・カルチャー

公開日:2025/8/29

 ある日ふと、子供の頃に夢中になった映画を思い出した。配信では見つからず、中古のDVDを購入して観ることにした。ノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデル原作の映画『ソフィーの世界』だ。

 おぼろげな記憶の中では、主人公ソフィーが謎の手紙に導かれて、自分自身の存在の真実に触れる物語だったように思う。これはわたしの物語だ!と強く共鳴した、あの衝撃だけははっきりと覚えている。

 35歳の誕生日。部屋を暗くして、コーラとポップコーンを用意する。少女時代のわたしにすすめられた映画を観るという、不思議な儀式のような夜。少し緊張しながら、再生ボタンを押した。

 画面に現れたのは、壮大な哲学史。ソクラテス、トマス・アクィナス、ジョージ・バークリー、ニーチェ…… 名だたる哲学者たちが次々に登場し、ソフィーに、そしてわたしたち観客に、難解な問いを投げかけてくる。時代は容赦なく移り変わり、わたしは問いに答えるどころか、言葉の意味を追うのに必死なまま107分が過ぎた。

 え? これを小学生のわたしは楽しんで観ていたの? 信じられない。どっと疲れた。いったい何に自分を重ねていたんだろう。大人になったわたしが頭をフル回転させても追いつけなかったというのに……。

いい哲学者になるためにたった一つ必要なのは、驚くという才能だ。赤ん坊はみんな、この才能をもっています。(中略)けれども、大きくなるにつれてこの才能はだんだんとなくなっていくらしい。(中略)それによって、わたしたちは大切な何かを失う。

『新装版 ソフィーの世界 (上) 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル:著、須田朗:監修、池田香代子:翻訳/NHK出版)より

 子供のわたしにとって、登場する哲学者たちは架空の人物のようだったのかもしれない。意志の宿った言葉を操る、不思議で魅力的な人たちとの出会い。ソフィーと同じく、ひたすらその世界の新鮮さに心を震わせ、驚き続けていたのだろう。

「無知は罪」だと、ずっと思っていた。でも今は、知らないからこそ驚けるのだと気づく。驚けることは失ってはならない才能であり、確かな価値なのだ。哲学への扉は、誰にでも平等に開かれている。

 ああ、そうだった。子供のわたしはずっと、自分がこの世にほんとうに存在しているのかを疑っていたのだ。映画のラストで、ソフィーは自分が物語の住人であることに気づく。わたしもいつか、そんな真実を知る日が来るのではないかと思っていた。時の流れや世界の果てに考えを巡らせた少女時代。誰も教えてくれない問いの答えを、この作品の中に見出していたのだ。

「わかった気になる」ことの不自由さを誕生日の夜に思い知る。大人になったわたしは、かつての小さな哲学者から大切な驚きをプレゼントしてもらった。

<第14回に続く>

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吉澤嘉代子

1990年6月4日生まれ。埼玉県川口市鋳物工場街育ち。2014年にメジャーデビュー。バカリズム原作ドラマ『架空OL日記』の主題歌として1stシングル「月曜日戦争」を書き下ろす。2ndシングル「残ってる」がロングヒット。2025年4月20日に2度目の日比谷野外音楽堂公演「夢で会えたってしょうがないでショー」を開催。デビュー11周年記念日となる5月14日に『第75回全国植樹祭』大会テーマソング「メモリー」をリリース。9月放送のNHK夜ドラ『いつか、無重力の宙で』では書き下ろし楽曲「うさぎのひかり」が主題歌に決定。10月から全国ツアー「歌う星ツアー」でライヴハウスをめぐる。