かけおち・青木マッチョのエッセイ連載「青木マッチョの三十年史」【第2回】「習い事とパソコン/幼少期②」
公開日:2025/11/22

そんな幼少期を送ってきた自分ですが、小さい頃から知っている親戚に会うと、みんなが口を揃えて「ようちゃんは誰よりも静かで、基本的に端っこにちょこんと座ってる」「おとなしくて女の子みたいだった」「置物みたいだった」と同じようなことを言うのです。今思うと置物みたいだったって普通に悪口じゃないですか。
ですがここに出てくる「女の子みたいだった」と言われるような自分の性格こそが、後の人生を変える要因の一つとなったのです。
話は少し変わりますが、自分は4人兄弟でして、兄が2人に弟が1人という全員男の兄弟でした。
親は女の子も欲しいと思っていたらしいのですが、4人全員男だったので子供たちの中で一番静かでどこか女の子に近い自分に、女の子が生まれてたらやらせたかった習い事をさせてくれたんです。
ちなみに自分以外の兄弟は同じ兄弟と思えないほどみんな活発で、自分以外は3歳の頃から野球のクラブチームに入団していました。
一応自分も野球をやりたいか聞かれたのですが、泣いて断りました。なぜなら運動もしたくなかったし、できる自信もなかったからです。もうここまで来るとある意味あっぱれですね。
そこで親が自分にやらせてくれた習い事が、「ピアノ(正確にはエレクトーン)」「絵画」「英会話」でした。
ネタバレにはなりますが、今はその習い事で習ったことを擦ってテレビに出させてもらったりしています。本当にありがとう。
英会話は、地域の家庭で開かれていた教室で、子供を何人か集めてやってくれていました。
ちゃんとした英会話教室ではあったのですが、そんなに英会話に興味がなかったのか、男女6〜7人のクラスで勉強するのが苦手だったのか、あまり身が入らなかった記憶があります。当時の先生ごめんなさい。フォローになるかは分かりませんが、綺麗な部屋でした。
小さいうちからそういう環境に置かれたら、普通はグループ活動をする力みたいなものが養われて、人付き合いや会話することが得意になる気もするのですが、自分のもともとの性格が足を引っ張り、そうなれませんでした。環境はかなり良かったのですが、小学2年生の頃に親の車で送ってもらっていたにもかかわらず「通うのがキツイ」という無理な理由で辞めました。
絵画教室は、自分の通っていた幼稚園で開かれていました。ちゃんと美術の偉い先生が来てくれていて、絵画だけではなく陶芸品を作ったり、油絵を描いたり、版画を作ったり、スクラッチボードという白い板を削って作品を作らせてもらったりしていました。
個人的には当時一番楽しくて、割と絵画教室に行くのは楽しみだった気がします。
ここのおかげで学生時代は絵が上手いキャラ(認知はされてませんでしたが)でしたし、中学の通知表も美術の「知識・技能」評価は3年間ずっとAでした(美術に関しては余裕ぶった態度を取っていたので、「取り組む態度」の評価はCでした)。
先生も優しく、自分が作るものに関してはかなり褒めてくれていました。
幼少期の出来事の中で唯一少し自信を持てた習い事だったと思います。
自信を持った結果、小学校高学年時には休み時間に漫画を書くようになりました。今見ればほぼパクリなのですが、『ボボボーボ・ボーボボ』にだいぶ雰囲気が似ています。自由帳1冊分を1巻として、10巻分書いてました。比べるのもアレですが、寄生獣と一緒ですね。
自分は当時トガった色使い……例えばりんごを描いたら色を赤ではなく水色に塗る、カブトムシを描いたらカラフルにするなど、独創性のある絵を描いていました。
絵画の先生はそれを特に褒めてくれていたのですが、自分が小学3年生の頃(手提げ袋オンリー事件が起きた頃)、急にそういう色使いをするのが恥ずかしくなってしまって、ちゃんと見たものを見たまんま書くようになったのです。
本来それでいいように思われますが、先生は違いました。
ある時いつも通り絵画教室で楽しく絵を描いていたら、急に先生が自分に近づき「君は上手くなりすぎた」と残念そうに言いました。関係ないですけど刃牙でもこんなセリフありましたよね。
それが自分的には結構ショックで、その時は知らなかったですが、確実に「絶望」という感覚を受けたのをハッキリと覚えています。
そこから教室に行くのが気まずくなり、絵画教室を辞めました。
そしてエレクトーン教室。まずエレクトーンというのは、簡単に言うとピアノの電子版のようなもので、ピアノが鍵盤1段なのに対し、エレクトーンはまず鍵盤が2段あり、基本的に右手でメロディ部分を上段で弾き、左手で伴奏を下段で弾きます。そして足元にもデカい鍵盤があり、左足でベース音、右足のペダルで音量や音色を変更するなど、1人でいろんなことをやらないといけない楽器です。
これを3歳の頃からやっていたのですが、正直、結構嫌でした。野球よりはマシかぐらいの感じで、興味はそこまでなく、通わされてるからやっているという感覚でした。週に1回レッスンがあり、毎回レッスン終わりに「○○を弾けるように」みたいな宿題をもらって、レッスンの前日にギリギリで練習して次の日を迎える、というのを繰り返していました。
まあしんどいけど辞めるほどじゃないなという感じで、なんだかんだ高校1年生まで続けました。発表会も多く、Zepp Nagoyaで演奏したり、近所のスーパー「バロー」の広いスペースみたいなところで、ORANGE RANGEの『お願い!セニョリータ』を演奏したりしていました。当時はこの曲が一番かっこいいと思っていたので。
思えばこのエレクトーンで、1人で練習するみたいな感覚が備わったのかもしれません。どれだけ難しい曲でもなんだかんだ練習しまくればできるようになるので、大抵のことは音楽に限らず練習すればできるというマインドになりました。
今は番組でバンドをやる機会もあり、その時に楽譜を読めたり、カリンバなどの民族楽器を演奏できたり、自分には絶対音感があると言い切ってテレビに出るなどもできているので、とても今の活動のタメになっています。いや本当に習わせてくれてありがとう。
あと、小学校高学年になって以降はほぼ女子と喋れなかったため、自分が母親以外に話せる唯一の女性がエレクトーンの先生だった記憶があります。当時普通に好きでしたし、中学生の頃に先生から結婚することになったと報告された時はなんとも言えない感情になりました。
これを書いていて、自分は先生を好きになりがちだということにも気づけましたね。
最終的には高校時代にバイトと部活と勉強でいっぱいいっぱいになり、13年間通った習い事でしたが普通に辞めました。
人間本当に無理な時の決断は早いです。
そして、幼少期に自分を形成した要因として、習い事のほかにパソコンが家に来たことが大きいです。
自分が小学1年生の時に実家にパソコンが導入され、自分はビックリするぐらいのめり込みました。
土日は基本的に兄弟みんな野球のクラブチームに行き、両親もそっちに付き添っていたため、自分は家で1人パソコンばっかりやっていました。
まず『おもしろフラッシュ倉庫』というおもしろ動画を集めたサイトにハマり、その流れで掲示板『2ちゃんねる』にハマりました。パソコンの操作自体が楽しく、小学4年生の頃にはラジコンのホームページを作り、キリ番だったりBBSだったり相互リンクだったりバナーを作ったり、学校で何一つ自慢できないスキルばかり上がっていきました。
でも、それで学校で目立つことができない自分も、本当は色々できるんだと奮い立たせていた気がします。
結局、学校で楽しかったり笑ったりすることが少ない分、パソコンで面白いことを見つけたり作ったりするのが好きだったんだろうなと思います。今思うと、学校の交友関係も大事ですが、小学校だけだとかなり情報の幅は狭まります。その点、インターネットを通じて広い視野で面白いことを見つけようとする力がついていたのかなと思います。いや、普通に友達いた方がいいと思います。
そんな幼少期でした。
でも現実はまだ暗くて静かな少し背が高いだけの少年なわけです。
書いていて暗くなってきてしまい申し訳ないですが、このままで自分は親の願い通り太陽のように明るくなれるのでしょうか。
この先の自分の人生や変化も、今後のコラムを読んで笑ってもらえたら嬉しいです。
書き終えた今、自分はめちゃくちゃ真顔ですが。
<第3回に続く>