かけおち・青木マッチョのエッセイ連載「青木マッチョの三十年史」【第3回】「趣味のあれこれ/中学時代➀」
公開日:2025/12/8

お疲れ様です。
かけおちの青木マッチョと申します。
大それた名前ですみません。
自分のことを知らない方がほとんどだと思いますが、そういった方は是非この連載の第1回を読んでもらえたら嬉しいです。
あとなんでコイツがダ・ヴィンチ様で連載できてるんだふざけるなと思われる熱狂的なダ・ヴィンチファン(もしくは青木マッチョアンチ)の方もいるかもしれません。その理由は自分でもわかりません。もし理由があるとしたら「奇跡が起きたから」です。
前回、前々回と自分の生まれてから小学校を卒業するまでの話を長々と書かせていただいたのですが、今回は中学時代の話をさせていただきたいと思います。
「太陽のように明るくなってほしい」と親から期待を込められて「陽平」という名前をつけてもらったのですが、その期待に応えることはできるのでしょうか。
そんなことも思いながら読んでいただけると嬉しいです。
中学生……基本的に12歳から15歳までの3年間のことを指しますが、めちゃくちゃ思春期にあたる歳なので、もう30歳になってしまった(歳上の方すみません)自分からすると、同じ3年間でも感情の変動が特に大きい3年間だったなと思います。
中学時代は自分の中でいろいろな人生の転機があったような気がします。
筋トレを始めたのも、陸上部に入ったのも、ドラムを始めたのも、彼女なんてできるわけないといろいろ諦めたのも全て中学です。彼女なんてできないと諦めたこと以外は、今になって役に立ってきていますね。
中学の頃の話をするにあたって、中学の卒業文集を引っ張り出して読んでみました。
テーマは「将来の夢」でした。
自分でもなんて書いたか覚えていなかったのですが、さすがに当時の記憶からしてお笑い芸人と書く度胸は絶対にないし、バンドを組んでいたから、そっち系のことを書いてるのかなと思いながら読んでみました。
すると、文集の前半は「バンドで武道館ライブをしたい」「国会議員になってお金持ちになりたい」と無茶苦茶な夢を語っていました。
バンドはまだしも、国会議員に関してはギリギリ炎上しないか不安な内容でしたが、確かに中学の社会の授業で先生が言ってたのを思い出しました。
国会議員はなっちゃえば数年間はかなりいい給料が入ると先生から言われ、それにすぐに影響されて書いちゃうみたいなのは、今も変わってないです。
そんな微笑ましい思いで文集の後半も読んでいくと、最後の一文で急に
「夢は、とりあえず生きていることです」
と書いてました。投げ出すなよ。
そんな卒業文集を書いてしまう中学時代でしたが、当時の趣味の話をさせていただきたいと思います。
もともと自分は、空いてる時間があると近くのアピタ(というスーパー)に行き、太鼓の達人に1人で狂ったように打ち込んでいたんですね。あなたの周りにそんな人はいましたか?
太鼓の達人には曲ごとにスコアのランキングがついており、なぜか当時の自分はそれに名前を刻むことばかり考えて生きていました。進路とか将来のことは考えずに。
ですがそれは、今の自分を構成している「負けず嫌い」の始まりだったのかもしれません。
なかなか叩くのが難しい曲などは、YouTubeで太鼓の譜面を見たり、当時持っていたPSP(懐かしいですね)の太鼓の達人のソフトで曲を流しながら太鼓に見立てた太ももを叩いて練習したりしていました。
悲しい趣味だなと思う方、ひとつ言っておくとバンダイナムコさんに失礼です。
さて、そんな自分のドンだー生活(太鼓の達人を生きがいにすること)に、ある日突然不穏な空気が立ち込めます。
ほとんどの曲のランキング上位に、「みつ」という自分とは違う名前が入ってくるのです。それまでは自分が常に上位にいたのに。
そんなデスノートのL並みに見えない敵との戦いに途方に暮れていた自分ですが、なんとその「みつ」は同じ中学の同級生だったんです。
話を聞いていると「みつ」とは、「みっくん」と校内では呼ばれている人間らしく、探してみたら案外すぐに見つかりました。
みっくんは長身で男前で少しヤンキー要素が入っている子でしたが、同じ太鼓の達人仲間だという情報があるので、緊張しましたがなんとか話しかけることができました。
青木「みっくん……ですよね? 自分もアピタで太鼓の達人やってて……」
みっくん「は? きも」
俺の緊張を返してくれよ。話が違うじゃないですか。
ランキング上位の「みつ」がみっくんなのかもよく分からなかったし、シンプルにキモいと言われたショックがデカすぎて心に深い傷を負いましたが、もう1人みっくんがいたことがその後発覚しました。
その新みっくんは旧みっくんとは打って変わってとても優しい子で、太鼓の達人についてめちゃくちゃ楽しく話すことができました。いい思い出です。
ですがそんな太鼓の達人にどハマりしていた自分でしたが、急にある疑問が浮かび上がりました。
「俺ってエレクトーンも習ってるし、太鼓の達人も得意だし、もしかしたらドラムもそこそこできるんじゃないか……?」
そう思った自分はすぐにドラムの教則本と当時一番安い電子ドラム(確か2万円ぐらい)をお年玉で買い、練習してみたら思ったとおり。最初から普通にある程度は叩けました。
やはり最初からできると練習も楽しく、どんどんといろんな曲を叩いていき(初めて叩いた曲は3月9日でした)、メキメキ上達していった自分は最終的に(暗めの)同級生たちとバンドを組むまでに至りました。
「ふりかけしゃわー」というバンドでした。
バンド名に関してはノータッチでいきますのでそちらもノータッチでお願いいたします。どうか。
しかし、ドラムに思ったよりハマっていった自分は、中学3年生の頃に20万する電子ドラムを借金して購入し、お金を返すために高校生になってから新聞配達を始める羽目になりました(誰よりも早く原付の免許を取れました)。
後先考えずに興味を持ったら行動するこの性格のおかげで、消防士を辞めて芸人になれたのかなとも思います。
そんなドラムの趣味もありながら、週末にはラジコンショップに行き1日中無心でラジコンを走らせるという趣味もあった自分ですが、この頃にライブハウスに通うという趣味も持ち始めました。中学から社会人ばりに1人の趣味を充実させていってるな。
NARUTOの主題歌など、アニメの曲を多く出している「FLOW」というバンドのライブによく行ってました。
カラオケでその大好きなバンドの出してる「GO!!!」という曲を歌いたかったけど、ノリが良すぎるしツインボーカルだしで全然歌えなかったのはいい思い出です。
ですがこの趣味のライブハウス通いも、高校になってからさらに大きな趣味になっていきますがそれはまた違うお話……。
運動事情で言うと、自分は中学で初めて運動部に入ります。陸上部でした。
うちの学校の陸上部は部員が100名近くいるかなりデカい部活だったのですが、なぜ入ったのでしょうか。
それは、小学生の頃の体育の授業でハードル走をやった際に、先生から「うまい」と褒められ、なんと恐ろしいことにそれだけを頼りに陸上部に入ったのです。
もちろんもともと運動はしておらず、なんならネットサーフィンを運動と言い張っていたレベルの自分は、最初の計測会で足の速さは部内でビリ。
中学の陸上部では、ハードルをやらせてもらうまで砲丸投げをやっていたり、なんだかんだ頑張って部内で2番目の足の速さになったり、ハードル走では名古屋の大会で1位になったりと、いろいろありましたが急に拒食症になってしまうんですよ。急すぎる。
というのも、先ほどの趣味がラジコンというのが関係してくるんですけど、ラジコンってスピードを速くするために車体に穴をあけて軽量化することがあるんですね。
それは人間も同じじゃないか? という単細胞と言われてもしょうがないほどの短絡的な考えを持っていた自分は、めちゃくちゃ無理なダイエットをします。
「やると決めたらやり切る」という性格も中学で既に養われていました。
そんな自分のダイエット法は「とにかく食べない」というものでした。
そんなダイエットをして親も心配するし、自分は常にイライラしてるしで最悪だったのですが、途中で攻略法を見つけます。見つけてしまいます。
それが「吐く」ことだったんです。何が攻略法だよと今では書いてて思いますが、当時の自分は痩せること……いや、自分を「軽量化」することに必死だったんです。
それを見つけてからは、みるみる体重が減っていき、身長170cm後半で体重は56kg。オドオドしたモデル体型が誕生しました。
では陸上はどうなったのかというと、格段に足が遅くなりました。どういうこと?
当時の自分はパニックになりましたが、やっとそこで「人間は軽量化しても速くならない」という至極当然のことに気づくことができます。
ですが、そのダイエットのせいでさらに悲劇が起こります。
身長が高くガリガリで、オドオドしていて色白になってしまったのもあり、やけに不良に絡まれるんです。
どれぐらい絡まれるのかというと、学校では肩パン専用マシンになり、コンビニに行こうものなら駐車場でたむろしてる不良たちに絡まれる。すんなりとコンビニに入れた回数の方が少なかったんじゃないでしょうか。
書いてて思いましたが、自分のダイエットのせいというよりそんな不良が多い地元の治安の問題なような気もします(今はいいと思います!!!)。
そこで、どうにかしないと、と思った自分がとった行動が「ジムに通うこと」だったんです。
ジムといってもボクシングジムとかで特訓して強くなろうというわけではなく、区のスポーツセンターのスポーツジムに行って筋トレして、身体を大きくすれば不良も絡んでこないだろうし、それが一番平和なのではないかと。
とにかく自分は平和主義でした(陽平の平は平和主義の平? と思って親に聞きましたが、みんなに平等に接せられるようにという意味でした)。
そこから自分は筋トレに打ち込んで、多少身体は大きくなりましたが誰にも気づいてもらえず。もともと気づいてほしくて筋トレ始めたわけじゃないし、全然いいんですけどね、本当です。
なぜ気づかれないのかという理由は明白で、自分は人前で脱がないですし、筋肉をアピールするキャラでもなく、ただ服をしっかり着て教室の隅っこにいたからです。今とほとんど変わってないじゃないですか。
何なら、すぐに脱ぐ自分より身体の小さい運動部の陽キャラがクラスの筋肉キャラみたいになっているのを隅っこで見ているだけでした。
自分は人前で脱ぐみたいなことは恥ずかしくてできなかったので、服を着てても分かるぐらいマッチョになろうとこの時に決意しました。この考えは15年以上経った今でも変わっていません。
今でも、筋肉芸人の方って基本的にはすぐ脱ぐじゃないですか。それを隅っこで静かに見ているという構図は中学から全く変わってないんですよね。
でも中学の頃と違って、ちゃんと自分が筋肉キャラになれているのは当時よりも筋肉が大きいということと、青木マッチョと名乗っているからだけなんですよね。
なので、身体の大きさとか名前とか「ガワ」を変えただけで、中学の頃から内面を全く変えずにここまでやって来れているのは、東京に来て周りの人たちに恵まれたからなんだろうなぁと強く感じています。
ふりかけしゃわーのメンバーも良かったんですけどね。
※編集部注:中学時代のお話の続きは12/22月に配信予定です!
<第4回に続く>