獣医師を目指す、元引きこもりの少女の成長を描く。第45回吉川英治文学新人賞受賞、ドラマ化もされた『リラの花咲くけものみち』【書評】
公開日:2025/12/16

人に深く傷つけられた時、人間以外の動物に救われた経験を持つケースは存外多いと聞く。犬や猫、もしくは鳥やウサギなどの小動物は、言葉こそ話せないが、目線や態度で飼い主に寄り添い、揺るぎない温もりを与えてくれる。かつて私にも、そのような相手がいた。ロップイヤーの女の子と暮らしていた一時期、私にとって彼女だけが、本音を漏らせる相手だった。
藤岡陽子氏による長編小説『リラの花咲くけものみち』(光文社)は、獣医師を目指す少女の成長を描いた物語である。第45回吉川英治文学新人賞ならびに、第7回未来屋小説大賞を受賞した本書は、瑞々しい心理描写が群を抜く一作である。
主人公の岸本聡里は、江別市にある北農大学に入学が決まり、東京に住む祖母のチドリと離れて暮らすことに不安を抱いていた。聡里は極端な人見知りで、チドリの存在が唯一の心の支えであった。聡里の母は、聡里が小学4年生の頃に病気で亡くなった。母の死後、しばらくは父と二人暮らしをしていたが、やがて父が再婚し、そこから聡里の生活は一変した。
再婚相手の友梨は、聡里の母が揃えた家具や食器、庭の菜園に至るまで、何もかも自分の色に塗り替え、母の面影を消すことで自分の存在を誇示する。そういう人間だった。聡里の母が大切に育てていた愛犬のパールまでも手放すように迫られた時、聡里ははじめて友梨に正面から反抗した。その日を境に、友梨は聡里をあからさまに無視するようになった。「自分がいない間にパールが捨てられるかもしれない」――そんな不安から、聡里は家を出られなくなり、不登校になった。
聡里に転機が訪れたのは、15歳の誕生日を迎えた当日だった。母方の祖母であるチドリが、「どうしても直接渡したいものがある」と電話をかけてきたのだ。父の再婚以来、チドリとは疎遠になっていた。だが、この日、3年半ぶりに聡里の姿を目にしたチドリは、聡里を抱きしめたまま細く高い声で泣いた。何年も伸ばし放題の髪の毛を無造作に束ね、サイズが合わない窮屈な子ども服を身につけた聡里。一目見て、チドリは孫娘がこの家で厄介者扱いされていることを察した。
激昂したチドリは、父の帰りを待ち、「聡里を引き取る」と宣言し、その日のうちに聡里とパールを自宅に連れ帰った。そこから聡里の日常は、少しずつ色を取り戻した。しかし、一度植え付けられた傷は簡単には癒えない。元来動物が好きな聡里は、祖母や恩師の助言もあり獣医師の道を志すが、大学生活がはじまると早々に、大きな壁にぶつかる。
“動物は怖い思いをしたり傷つけられた体験があると、そこから人間を信頼しなくなるからね”
実習指導を受け持つ獣医の能見が発した言葉だ。人間も動物の一種で、この点は同じであると身につまされる。怖い思いや傷つけられた体験は、被害者の心に深く根を張る。根っこを溶かすには、「信頼できる相手もいる」ことを少しずつ体感として染み込ませるしかない。だが、それには途方もない時間と労力がかかる。
過去の体験が尾を引く聡里は、他者との関わりを極力避けようとする。口数も少なく、相手に心を開けない。だが、動物のことになるとしっかり情報伝達ができ、相手の立場に立って物事を考えられる。聡里のその不器用な温もりは、やがて周囲の人々にも届き、雪解けの春のように徐々に花開いていく。その過程は、タイトルにある通り「けものみち」と呼ぶにふさわしい。険しい道のりではあるが、聡里の成長を見守る旅路は、不思議と心が温まる。
大学の講義や実習内容など、獣医療にまつわる描写が緻密に描かれる本書は、命の現場さながらの臨場感と厳しさを内包する。ペットなどの伴侶動物のみならず、牛や馬などの大動物に関する現場の様子も実に克明で、読みながら幾度となく息を呑んだ。伴侶動物か、大動物か。獣医としてどちらの道に進むのか、聡里の心情が揺れ動く様も興味深い。
“還暦を迎えたいま思うのは、時間をかけて力を尽くして築いたものだけが、最後に残るってことよ。仕事もそうだけど、人との関係にしても同じことが言える。”
聡里がアルバイトを務める動物病院の院長の言葉だ。がんばることを冷笑したり、必死な人を揶揄する発言をSNSでもたびたび見かける。だが、私たちはもっと懸命に生きていいのだと思う。聡里のように、聡里が大学で出会った仲間たちのように、自分のあるべき姿を探し、必死に力を尽くして生きることではじめて見えてくる景色がある。
“リラの花咲くけものみち”を突き進む聡里の背景には、章タイトルに刻まれた多くの花が咲き誇る。長い冬に閉じ込められた鬱屈と、解放された初夏の華やぎ。両者が惜しみなく詰め込まれた物語は、懸命であるからこそ行き詰まりを感じる人々に、大いなる勇気を与えてくれるだろう。
文=碧月はる
