ロシア発祥のケーキや発酵乳を出すカフェが舞台のコージーミステリー。世界の珍しい料理で旅に出た気分に【書評】
PR 公開日:2025/12/13

少し前まで「コロナ禍のせいで毎日息苦しい」と思っていたが、ポストコロナの時代が訪れようと、それは何も変わらなかった。なんとなく世界が、人と人とが、分断されている気がする。誰かと話すたびに、ちょっぴり窮屈な気持ちになる。日常にそんな閉塞感を感じている人は、多いのではないだろうか。
そういう人にこそ読んでほしいのが『それでも旅に出るカフェ(双葉文庫)』(近藤史恵/双葉社)。世界の珍しいメニューを提供するカフェを舞台としたコージーミステリーだ。この本は『ときどき旅に出るカフェ』(近藤史恵/双葉社)に続く物語だが、この本から読み始めてもじんわりと心に沁みる。どこにいようが、誰といようが、もっと私は私らしくいていいんだ――そんな実感が胸に宿る一冊だ。
時はコロナ禍2年目。会社員の奈良瑛子は、行きつけの「カフェ・ルーズ」が長らく休業を続けていることを気にかけていた。瑛子の元同僚・葛井円(くずいまどか)がオーナーを務めるそのカフェは、円が世界中を旅して出会ったスイーツやドリンクを再現して振る舞っており、瑛子にとってかけがえのない場所だった。しかし、いつ店の前を通りかかっても、カフェは休業中のまま。だが瑛子は、思いがけない形で円のレシピと再会することになる。
濃厚なのに軽く、甘さも控えめなエストニアのチーズクリーム・コフピーム。キャラメルみたいに香ばしいロシアの発酵乳・リャージェンカ。ボリュームたっぷりのポルトガルのサンドイッチ・フランセジーニャ。ふわふわと柔らかくて、ミルクの風味が強いロシア発祥のケーキ・鳥のミルク。舌の上で冷たさが広がり、すうっと溶けていくスパイスとナッツが効いたインドのアイスクリーム・クルフィ……。カフェ・ルーズのメニューはどれも美味しそう。カフェ・ルーズは世界にはさまざまな由来の、さまざまな料理があることを教えてくれる。そして、ページをめくればめくるほど、このカフェの店主である円の人柄に魅力を感じずにはいられない。円はいつでものびのびとしている。コロナ禍の前、円は毎月十日ほど旅に出かけては、新しいメニューを探していたという。コロナ禍になり、旅に出るのが難しくなった今、さぞかし息苦しい思いをしているのかと思えば、円はいう。
「旅をすることはわたしにとって、ようやく手に入れた自由だったんですけど、でも、最近、思ったんです。旅に行けなくても、わたしは自由なんだって」
その言葉にハッとさせられるのは、私だけではないだろう。自分を自由にするかどうかを決めるのは、自分の心次第。円はそんな大切なことを教えてくれる。
引きこもりの姉にかけた言葉を後悔する妹。海外で暮らす家族のことを思うアーティスト。コロナ禍で留学を中断し、これからの道に悩んでいる瑛子の従姉妹。「わたしなんて」と自らを卑下してばかりいる主婦……。円の前には、やり場のない思いを抱えたさまざまな人物が現れる。円はとっておきの料理を提供しながら話を聞き、心を解きほぐしていく。多くの人は円によって少し前を向けるようになるが、いつだってそうとは限らない。ときには円が苦しい状況に追い込まれることだってある。だが、どんな時も円は真っ直ぐだ。ひたむきに自分の信じる道を進む円の姿は、なんて美しいのだろう。そんな円の姿に勇気づけられる。憧れさえ感じさせられてしまうのだ。
この本に描かれているのは、甘くはない日常だ。厳しいことも、辛いことも一緒に描かれている。だが、だからこそいい。ざらついた日常は、甘みを足しただけでは飲み干せない。コーヒーのようなほろ苦い味わいと合わせてこそ、やっと消化できる気がする。読み進めるうちに、何だか身体がほかほかとあたたまり、前を向く元気が湧いてくる。
あなたもこの本を開いて、カフェ・ルーズを訪れてほしい。カフェ・ルーズは、私たちの世界を広げてくれる。どんなに厳しい状況のなかでも、どこかには必ず救いがあることを教えてくれる。どれほど息苦しい世界でも、私は私らしくいたい――コロナ禍のなかでもパワフルに日々を過ごす円の姿を見ているうちに、そんな思いがふつふつと湧き上がってくるに違いない。
文=アサトーミナミ
