ひとりの時間が必要な彼と、ふたりの時間が大切な彼女。同棲生活の行方は――「誰かと生きる」難しさと切実さを切り取った5つの物語『今日のかたすみ』【書評】
PR 更新日:2026/1/5

誰かと一緒にいることは安心をもたらす一方で、確実に自由を削る。それを分かっていてもなお、人は誰かと生きようとする。『今日のかたすみ(ポプラ文庫)』(川上佐都/ポプラ社)は「誰かと生きる」という行為の難しさ、そしてその裏側にひそむ切実さを切り取った連作短編集だ。
第1話(『愛が一位』)に登場する遙と百ちゃんの同棲は、愛情があるからこそ崩れていく関係として描かれる。ひとりで過ごす時間や空間を何よりも大切にする遙と、ひとり時間を充実させるよりも、「誰かと過ごす」ことに価値を見出す百ちゃん。
遙と百ちゃんの言い分は、どちらも尤もで、それだけに落としどころを見つけるのが難しい。彼らは生活を共にしていくなかで、自分たちの違いを毎日のように感じてしまう。相手を嫌いになったわけではないのに、息苦しさばかりが募っていくこの感覚。パートナーがいる人なら、誰しも覚えがあるのではないだろうか。
ここで描かれているのは恋の終わりではなく、「分かり合えなさを抱えたまま一緒にいること」は可能か否か、という問いかけだ。
恋人同士、親と子、友人に隣人。血縁であれ他人であれ、近しければ近しいほど、私たちは相手のどこまで踏み込んでいいのか時として分からなくなる。その距離感に戸惑う姿が、第2話(『毎日のグミ』)では女子中学生の立場から描かれる。
母との衝突をきっかけに父のもとへ身を寄せる彼女は、久しぶりに共に暮らす父との距離に、安心と居心地の悪さを同時に感じる。大人でも難しい距離の調整を、まだ言葉を持ちきれない年齢の少女が身体感覚で学んでいく。
一方、アパートの隣室に住むおばあさんと交換ノートを始める女子大生の物語(第4話『ピンクちゃん』)は、血縁でも恋愛でもない関係性に焦点を当てたもの。ここでは「近すぎないこと」が、心地よさを生んでいる。互いの生活に踏み込みすぎず、彼女たちは交流する。ノートという媒体を介して生まれる緩やかなつながりは、人と生きることは必ずしも息苦しさばかりではないことを教えてくれる。本書のなかでもとりわけ印象深い一編だ。
遙と友人モキチ、さらに職場の後輩とのルームシェアを綴った第3話(『避難訓練』)、そしてモキチの新生活で締めくくられる最終話(『荷ほどき』)でも、緩やかなつながりの尊さ(ゆえの得難さ)を見つめている。
遙はじめ登場人物たちはいずれも自分の弱さや不完全さを自覚し、ままならない現実と格闘している。その様子を、作者は一定の距離をもって記し、判断することなく見つめる。その距離のとり方自体、本作のテーマと呼応しているように感じられる。
印象的なのは、本作のなかで起きる事件や出来事の多くは、人生において「決定的ではない」ところ。
別れも、和解も、はっきりとした答えを持たないまま日々は続いていく。だけどその曖昧さこそ、人が人と生きる現実なのだろう。実際、私たちの多くは近しい相手と完全には分かり合えないまま、それでも一緒に食事をし、言葉を交わし、同じ空間に身を置く。その積み重ねが生活となり、人生となっていく。そう、この本はささやかでいて難しく、そして尊い「生活」と「人生」そのものを描いている。
文=皆川ちか
