美しき死刑囚と向き合うシスターに訪れたのは、救済か、破滅か――価値観を揺さぶる究極のラブ・サスペンス『聖女の告解』【書評】
PR 公開日:2026/1/7

あの深い海のような碧い瞳に射止められたら、逃げ出すことなんてできない。整いすぎるくらい整った美しい顔立ち。夜が透けて見えるような柔らかな微笑み。知的で穏やかで、美しい鐘の音のように響く声。だが、この男は何人もの人間を手にかけた殺人犯。そんなことは分かっているのに、その傷ひとつない美しい手がこれまでどれほどの血にまみれてきたのか分からないのに、どうしてだろう、その手にすがりつきたい衝動に駆られる。
聖女とまで呼ばれた女性が語るそんな告白に、私たちの心も揺さぶられずにはいられない。『聖女の告解』(葉月香/ポプラ社)は、拘置所に通う女性教誨師を描いたラブ・サスペンス。教誨師とは、刑務所や拘置所で収容者の精神的救済のために宗教的な手助けを行う民間のボランティアのことだ。特殊な環境の中で彼女は何を見、何を経験したのだろうか。告白するその内容は衝撃的だ。
経験を語るのは、カトリックの修道女であるシスター・榊紫音。彼女は、2週間ごとに東京北拘置所を訪れ、死刑囚を担当する駆け出しの教誨師だった。紫音の葛藤は私たちの胸に迫ってくる。彼女の話を聞けば聞くほど、何が正義で何が悪なのか、だんだんと分からなくなっていくのだ。正義と悪なんて簡単に区別できるわけではないのに、どうして人は人を裁くのだろう。拘置所には、いつ訪れるか分からない死刑執行を待つ確定囚たちがいる。中には、自らの行いを心から悔い改めている者もいるが、そんな人間もその時が訪れれば、酷く死ななければならない。親しく言葉を交わした死刑囚の最期に立ち会った紫音は激しく動揺する。刑場の静寂を切り裂いた死刑囚の命を奪う轟音がいつまでも耳から離れない。
そんなある時、紫音は、DV被害女性の保護施設を運営していた元カリスマセラピスト・神志名暁生を担当することになった。神志名は彼の保護下にあった女性や子どもたちを執拗につけまわし脅かした父親や元恋人6人を、施設の職員たちと共謀して殺害し、「歪んだ正義に基づいた独善的な犯行」として死刑判決を受けた人物。幼い頃の記憶を一部失い、誰にも見えないものが視えたり、予兆を感じ取ったりすることがある紫音は、神志名と会ったその時、彼の周りに赤々と燃える幻の炎を目にする。一体その炎は何を意味するのか。彼の中に隠されたものを暴いてやりたいという気持ちを胸に紫音は神志名と向き合っていく。だが、神志名は人の心をまるで本でも読むかのようにするりと読み解いてしまう。紫音の心の中にもすっと入ってきて、紫音は神志名にこれまで誰にも打ち明けたことのない過去を打ち明けてしまった。神志名のための教誨の時間は、いつの間にか紫音が自らの過去と向き合う時間へと変貌していく。死をも恐れぬ神志名と関係を深めるうち、やがて紫音の信仰が揺らいでいき……。
気づけば、私たちも拘置所の教誨室にいる。今まで信じてきたものが、自分の根幹ともいえるものが足元から崩れていく不安を、紫音とともに体感していく。ほとんど記憶のない幼少期、紫音は何を経験したのか。他の人に見えないものを知覚することができる紫音の特別な能力の正体は何なのか。そして、紫音がかつて犯した罪とは。過去と向き合い、自分自身を見つめることほど恐ろしいものはない。それでも、神志名と対面する限りそれは避けられない。教誨の場では、神志名の内面だけでなく、紫音が抱えてきたものもまた、容赦なく照らし出されていく。そして、紫音の動揺は、その場に同席する私たちにも確かに波及していく。
これは救済なのか、破滅なのか。次第に明かされていく事実と、神志名と関わることで変化していく“聖女”の姿におそれを抱きつつも、どこかで共感してしまう自分にも気づかされる。読み終えたあとはしばらく茫然。読了後しばらく経った今も、自分の価値観の輪郭はぼやけたままだ。シリアルキラーであるはずの男に、私の心も狂わされてしまったということなのか。読み終えたはずなのに、あの碧い瞳を忘れられない。ページを閉じたあとも、静かに心を侵食してくる――そんなこの本を、あなたの傍らにも是非。
文=アサトーミナミ
