子どもを連れて戻ってきた、かつて好きだった人。知らない間に何があったの?/小戸森さんちはこの坂道の上⑤
更新日:2025/2/6
『小戸森さんちはこの坂道の上』(櫻いいよ/KADOKAWA) 第5回【全7回】
フリーデザイナの小戸森乃々香は、祖母宅の管理を頼まれ、故郷に戻ってきた。「不倫の子」として肩身の狭い思いで過ごした福井の海沿いの町。急勾配の坂の上に建つ祖母宅で、心機一転、故郷で快適な一人暮らしを満喫しようと思っていたのだが――。海外に行ったきり会っていなかった幼馴染の清志郎が、ふたりの子どもを連れてやってきて!? 突如始まった同居生活の行方は…?

(櫻いいよ/KADOKAWA)
現実逃避にする仕事はなかなかはかどり、まだ締め切りには余裕がある案件をふたつも片付けてしまった。満足感に浸っていると、「うわ、すっずしー!」と大きな声が聞こえて体が跳ねる。階段のほうを見ると、清志郎がひょっこりと顔を出していた。
「勝手に部屋の中覗かないでよ」
「ドア開けっぱなしにしてんのは乃々香じゃん」
そうだけど、だからって覗いていい理由にはならないだろうが。
わたしが小学六年生の時に増築された二階部分は階段をのぼってすぐに六畳の部屋があり、その奥には襖で仕切られる八畳の部屋がある。わたしの部屋しかない贅沢な二階だ。階段と部屋のあいだにドアはあるけれど、閉めることはほとんどなかった。今もそのクセが抜けない。
「この家はかわってないなーって思ったけど、この部屋はさすがにかわったなー」
清志郎が部屋に入ってきてきょろきょろと見回す。
昔、清志郎はよくこの家にやってきた。持ち前の社交性と人懐っこい笑顔で祖母ともあっという間に仲良くなり、泊まったこともある。
「乃々香もおとなになったんだなぁ。まぁ乃々香なら大丈夫だとは思ってたけど」
「清志郎から心配や安心なんかされたくないんだけど」
「うわぁ、冷たいなー。昔あんなにオレに懐いてくれてたのにー」
そっけないわたしの返事に、清志郎はショックを受けたような反応をする。うざい。懐いてた、と言うところもうざい。
「で、なに? 用があって来たんじゃないの?」
「そうそう、ちょっと早めだけど、そろそろ夕食にしないか?」
もうそんな時間か、と時計を確認すると、五時を過ぎていた。そういえばお昼も食べてないな。合間にちょこちょこと栄養食を摘んでいたけど。
「もしかして清志郎が作ってくれるの?」
「まさか」
「じゃあ誰が作るのよ。わたしはやだよ。それに家に食材ない」
スーパーまでは徒歩で十五分もかかるうえに坂道のせいで自転車もキツい。しかも今は真夏だ。結果、元々料理をすることに興味がないわたしは保存食代わりのスープやら乾麺やらをネットで買いだめして、引っ越してからはそればかりを食べている。冷蔵庫はネットで買った飲み物と冷凍食品しかない状態だ。
今日もだけれど、この先の食生活はどうするつもりなのか。
「大丈夫大丈夫。オレに任せろ」
自信満々に胸を叩く彼に、嫌な予感を抱いた。清志郎がこう言うときは、大抵ろくなことがない。昔、夏休みの自由研究に悩んでいたときも「大丈夫」と言って冷蔵庫から卵を取り出し羽化させようと提案してくれた。もちろん、数日後に異臭が充満して(そのあいだも清志郎は大丈夫だと言い続けた)祖母に怒られた。わたしだけが。
なにをするつもりなのか、と聞こうとすると、清志郎は部屋の窓から景色を眺め、「ここはかわらないな」と懐かしむ。
「十六年ぶりなのになあ。でも安心するな、ここは」
「……清志郎、いつ、日本に帰ってきたの」
「え? ああ、七年前かな? いや八年だっけ? 南米のほうでずっとうろうろしてたんだけど、親父がヤバイって聞いて帰国したんだよ」
えっ、と目を丸くすると、清志郎は「あー大丈夫大丈夫。癌だったんだけど、幸い手術と抗がん剤治療で今のところ転移もなく元気だから」と胸を張った。
「よかった。でも、高校中退して海外行った息子とは縁を切ってたのかと思った」
「縁起でもねぇこと言うなよ。まあ、あのときは事後報告だったからめちゃくちゃ文句言われたけどな! ははっ!」
清志郎の家族は礼儀正しくてやさしくて落ち着いたひとばかりなのに、なぜ清志郎みたいな異端児がうまれたのだろうか。
税理士だか弁護士だかの父親に、お菓子作りが趣味の母親、そしてふたりの成績優秀な歳の離れた兄。清志郎はそんな家族に愛されていた末っ子だった。
絵に描いたような幸せな家庭で育ったから、彼はわたしのことを〝かわいそう〟だと思ったのだろう。わたし自身、清志郎の家族に会ったときは、こんなにもあたたかな家庭が実在するのかと驚いたっけ。
「そういや言ってなかったけど、さっきの、男のほうが歩空で小四、女のほうが寧緒で小二。オレの子ども。かわいいだろ?」
でへへ、とだらしない顔をしながら、清志郎はそばにあったひとりがけのソファに腰を下ろした。
小学二年と小学四年といえば、八歳と十歳か。まさか清志郎にそんな大きな子どもがいるなんて。清志郎はわたしより三歳年上なので、今は三十二歳だ。ということは、二十二歳のときには父親になっていた計算になる。
そこではたと気づく。
「海外で結婚したの?」
「いや、結婚したのは四年前」
それはつまり、どういうことだ。頭にクエスチョンマークを浮かべていると、
「実はさ、オレと血は繫がってないんだよ。奥さんの連れ子だったから」
と清志郎が力なく笑って説明をつけ加えた。
「でも、気にしないでいいから。乃々香は普段通りでいいよ」
「……そう、言われても」
そんなことができるだろうか。
普段通りってどうすればいいんだ。清志郎の家族の事情を抜きにしても、わたしはどう振る舞えばいいのかわからないのに。家主ではないが家主代理のようなものだし、同じ家に住むと言ってもこの家は広い。でも台所や風呂やトイレは共同なので、それなりに距離は近い。それらをどう管理すればいいのだろう。で、この事実だ。
やばい、面倒くさい。いやだ、面倒くさい。
でも、どうにかしなればいけない。
一度考え出すと止まらなくなり悶々としはじめる。と、清志郎が「くは」と笑った。
「深く考えなくていいよ。乃々香は気にせず過ごして。オレがそばにいるんだから、オレがなんとかするよ」
そう言ってそばにやってきて、わたしの肩をぽんっと叩く。
オレがいるんだから。まわりなんか気にするな。乃々香は乃々香のままでいいんだから、気にせず過ごしていればいい。
昔から彼に何度も言われた。見た目には平然と堂々と振る舞っていたわたしが、実はいつもぐるぐるいろんなことを考えていることを、清志郎だけが気づいてくれた。
この歳でまた言われるとは思わなかった。そして、その台詞で自分が安心するとも思っていなかった。
……いや、たぶん安心したらダメなんだけど。
<第6回に続く>