第12回「人生初めてのヨーロッパ旅行で全部荷物を盗まれた酒飲み独身女」/酒飲み独身女劇場 ハッピーエンドはまだ来ない⑫

文芸・カルチャー

公開日:2024/6/28

灼熱パエリアの先に、サグラダファミリア

酒飲み独身女劇場 ハッピーエンドはまだ来ない

警察署が思いのほか混んでいて、時間がかかってしまい、近くのレストランで、なぐさめのパエリアを注文。

ちなみに友だちは、遅れた分この街にもう少し残ろうと思うと前の街で解散済み。
わたしは、宿にあった『地球の歩き方』1冊で、全てをなんとかするしかなかった。

太陽に飲まれて、溶けかけのアイスコーヒーをストローでくるくるかきまぜる。グラスに流れる夏の汗は、たらり冷や汗へと変わる。

思っていたよりも、予約していたサグラダファミリアの観光予約時間がせまっていたのだ。そわそわ不安になる。無意識に机をとんとん指で鳴らしている。

どうやら、ウエイトレスさんが、パエリアの注文を忘れていたそうだ。

「ノーセンキュー」とは言えず、少し遅れて、あっつあつのスキレットにごろっと貝やイカの入った大きいパエリアが運ばれてきた。

いま写真を見返してみると、「お焦げっぽい部分が、かりかりおいしかったんだろうなぁ」とかいろんな感想を想像できる。

だけど、当時はもうギリギリすぎて口中を火傷しながらパエリアを平らげるしかなかった。

その後、ぜーはーぜーはー走ってサグラダファミリアまでたどり着いた。

きらきら美しさしか知らない光が差し込み、この世のものとは思えないほど素敵やん。

神々しく、鮮やかなステンドグラス。
眉間に皺を寄せて、汗だくで険しい顔をして佇む自分。

パエリアで火傷しすぎて、血の味に耐えていた人は、きっと他にはいないだろう。

湯につかれば綺麗さっぱり

酒飲み独身女劇場 ハッピーエンドはまだ来ない

散々、走って走ったわたしに朗報が舞い込んだ。

お土産屋さんのお姉さんが教えてくれたのだけど、どうやらスペインにはハワイアンズのようなスーパー銭湯があるらしい。

『アラジン』に出てくる宮殿のようなお風呂に入れるんだとか。かつてディズニープリンセスに憧れた身としては、そりゃもう行くしかない。

『テルマエ・ロマエ』でしか見たことがないような建物、お風呂は洞窟のように暗くてキャンドルがゆらゆらと灯っているだけ。

きゅぅぅっポイントが上がってきた。
ロマンティックすぎない?

どの浴槽も、いい雰囲気のカップルで埋め尽くされていたけど、ごめんよと気にせずに、ずかずか入っていく。

近所の銭湯のように、身体中が真っ赤になるほどの熱湯ではなく、心地いいぬるま湯。
微熱のような温度に溶かされていく。

すっかり気持ちは王族ですよ。夢見る大人のお姫様。

「えいっ!」とクレジットカードに頼って、マッサージも15分だけつけてみた。ラベンダーのいい香りがするオイルと手のひらの体温。うーん…もう、このまま寝ちゃいそう。

スペインに来て、一番リラックスできたかもしれない。やっぱりここに住みたい。
洞窟でも全然OKです。

帰り道は、誰も気にせずに、陽気に鼻歌を歌いながらスキップで宿に戻り、うたた寝したあと、大事件発生。

「もう何も言い残すことはありません」

パスポートも入れていた財布を銭湯に忘れました。
もう、全て鍵っ子みたいに首からぶら下げておかないと、だめなのかもしれない。

この身体に、はじめてのタトゥーじゃなくて、財布を縫い付けたい。
なんなら、サイボーグになって感情とか全部、全部消し去りたい。

銭湯はもう閉まっているし、スマホもリュックも見つからないのに、パスポートが見つかることなんてあるのか?

自分のあまりのぽんこつさに、涙がうっすら出てくる。窓から吹き込む夜風に頬を打たれて、より一層、感傷的になる。

エリオも最後はこんな気持ちだったのかな…と顔を上げると窓ガラスに映り込んだ自分の顔。

「ぎょえっ」

思わず変な声が出た。わたしの泣き顔って、こんなに見るに耐えないものなのか。
ガラスに映った自分を見て、涙もすーっと引っ込んだ。

『君の名前で僕を呼んで』

酒飲み独身女劇場 ハッピーエンドはまだ来ない

エリオを演じたティモシーはやっぱり天才だった。
『君の名前で僕を呼んで』のラストシーン。

宝物のような夏は終わり、冬。
エンドロールが流れ始めると同時に、彼の表情だけがじっと映される。

セリフも言葉もないのに、どうしてこんなに愛しくて切なくて悲しくて憎い、そんな複雑な気持ちがひしひしと伝わってくるのだろう。

最後なのに、完全に心を奪われ、つられて泣いてしまった。涙を流すのは、誰にも見られない暗い場所にかぎる。

こんなはずじゃなかった1週間のスペイン旅行。
誰かが、映像として、綺麗に切り取ってくれたら、この旅も美しい芸術作品に昇華されるのだろうか。

そんなことはないか。

『君の名前で僕を呼んで』が、あれほど美しい作品になったのは、場所も風景もエリオが醸し出す雰囲気あってこそだ。

よくよく思い返してみれば、本のページをめくる手のひら、鍵盤を弾く所作なども上品で、うっとりさせられるほどだった。

わたしの指なんて、缶ビールのプルタブをひっぱるためにしか使ってないじゃないか。

今、同じようにキッチンでスパゲッティ何分茹でたっけ?なんて思いながら、片手で2本目の缶ビールを開けたばかり。

彼らと同じ場所に行けば、何かきゅぅぅぅっと心が動かされるようなことが起こって、何かが変わると期待していたけれど、結局何も変わらなかった。

皿に盛り付けたうどんに転生しかけているペペロンチーノ。
フォークでなかなか巻き上がらない、ぶよぶよになったパスタを見つめて、そう思う。

学生の頃はスパゲッティなんて失敗しても、しゃあなしと思ってた。
だけど、今になっても、タイマー計り忘れて、このありさまだ。

いつまでも変わらないのに、流れる季節は待ってくれない。

絡まったパスタを無理に引っ張って、
ぶつぶつと切れた麺を見ていると急にやるせなくなった。

だけど、気づかないところで変わってるのかもしれない。
気づけていなかっただけかもしれない。

とんでもねえなって、友だちに対しても自分に対しても思ったけど、
ひとりでも、全て失っても、なんとかなるって、教えてくれたのはこの旅があったから。

スペインに行ったあと、1年以内に会社をやめてもなんとかなるんじゃない?と思ったのは、この経験があったからかもしれない。

ちなみに、友だちは、その後インドに修行に行ったまま帰ってくることはなかった。
何をしているのかも、わからない。

インドのバラナシと呼ばれる大聖地で、身体中に真っ白な灰をつけた、いかにも仙人のような人たちに囲まれ、そのままスカウトされて、修行に行ってしまったのだった。

ふくらんだ塩っ辛いペペロンチーノをかきこんで、缶ビールを一気に飲み干した。

明日は、ナポリタンでもつくってみるか。
粉チーズもたっぷりかけちゃおう。

<第13回に続く>

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さかむら・ゆっけ、●酒を愛し、酒に愛される孤独な女。新卒半年で仕事を辞め、そのままネオ無職を全う中。引っ込み思案で、人見知りを極めているけれど酒がそばにいてくれるから大丈夫。たくさんの酒彼氏に囲まれて生きている。食べること、映画や本、そして美味しいお酒に溺れる毎日。そんな酒との生活を文章に綴り、YouTubeにて酒テロ動画を発信している。気付けば、画面越しのたくさんの乾杯仲間たちに囲まれていた。