【第15回】ちゃんもも◎『刺激を求める脳』/幸正#6
公開日:2018/9/8

千秋楽の日。地方公演では多少ざわついていたラストシーンも、今日は張りつめたように静まり返っていた。それだけ目の前の演劇に観客が魅入ってくれていたということだろう。他のみんなも本拠地ということで集中していたと思うし、自分で言うのもなんだが、自分自身、いい演技が出来ていたと思う。
舞台を支えてくれたスタッフ一人一人にお礼を兼ねて挨拶をしながら楽屋に戻る。
ああ、なんだか帰るのがもったいない気分だ。できることなら、いつまでもこの余韻に浸っていたい。このまま楽屋で缶ビールを開けて、そのままひと眠りしてしまいたい。
「三谷さん! 悪いんだけど、楽屋に戻る前に冷えた缶ビールを一本用意しといてくれないかな?」
三谷さんは微笑みながら何も言わずに頷き、スタッフに手配してくれた。
「おーい、佐藤君!」
不意に声を掛けられ、振り向いた先に居たのは昔なじみのあの喫茶店のマスターだ。僕が無理を言って、わざわざ店を休みにして駆けつけてくれていた。
「忙しい中、来てくださってありがとうございます! いかがでしたか、舞台は?」
この人の顔を見てしまうと、恩師に会ったかのようについ嬉しくなって十代の頃に戻ってしまう。
「いやあ、それは僕なんかがどうこう言うよりも、客席にいたお客さんたちがすでに答えをくれているのではないのかな?」
この人はいつもこうして、ひとつ気を利かせた喜ばしい言葉をくれる。
「とても楽しめたよ。呼んでくれてどうもありがとう。ところで……」
マスターは小声でそっと耳打ちをしてきた。
「真理子ちゃんとの、あの報道は本当なのかい?」
この人も意外とミーハーなのだな、と思いながら僕は悲しそうな顔を装った。
「ええ、残念ながら、そういうことになりました」
マスターはぼそっと独り言のように言った。
「いやね、さっき関係者の入り口で真理子ちゃんを見かけた気がしたものだから。まあ、僕も歳だから、見間違えたんだろうねえ」
実は、マスターはデビュー当時から真理子のファンだった。『あんなにキレイな娘さんは他に居ない』と言って憚らなかったマスターの店に、はじめて真理子を連れて行ったときのいつになくソワソワして、いつもなら絶対にしないであろう失敗を次々とするマスターには二度とお目にかかれないだろう。
おそらく、マスターは女性スタッフか誰かを真理子に重ねてしまったのだと思う。
真理子がここに来る筈はない。
いつも可愛らしい反面、どういう顔をしてここに来たらいいのかわからなくなるのもまた真理子の性格だった。堂々としていればいいところを小さなことでくよくよする、いつまでも小さな女の子のような女性だ。
女優としてカメラや観客の前で役に入った時の度胸はどこに行ってしまったのかと尋ねてみたくなるくらい素の真理子には勇気がない。本当は牛丼やハンバーガーなどのファストフードが大好きなのにもかかわらず、女優としてのイメージを気にしていたのか、いつも僕に買いに行かせ店内でそれらを食べることなどありえない事だった。出来立てが一番おいしいんだけどなあ、と必ず一言ぼやくのが慣習になっていた。
まだ僕の心の中には真理子が住み着いているのだろうか。こうして話題に出てくるだけで思い出さなくてもいい事を思い出してしまう。
「佐藤君、すまない。辛いことを思い出させてしまったかな?」
そんなことを思い出しているうちに、マスターが心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。
「いえ、大丈夫です。もう終わったことですから」
マスターを見送り、楽屋に向かった。
楽屋のドアノブに、白いビニール袋がぶら下がっていた。さっき頼んでおいたビールをスタッフが掛けておいたのだろうか? ぬるい。しっかりと『冷えた』ビールと伝えた筈なのに。三谷さんも、普段はしっかりしているのにこういうところがあるからなあ。
唐突に、コンコン! という響きのいいノックの音とともに、
「失礼します! ビール、お持ちしました!」
そう言ってスタッフが冷えた缶ビールを僕に手渡した。
「あれ? ああ、ありがとう」
さっきのはなんだったんだろうか。
「ちょっと待って!」
慌ててスタッフを呼び止めた。
「あの、これドアノブに掛かってたんだけど、なんだろう? てっきりさっき頼んだビールだと思ってたんだけど」
そう言ってビニール袋を持ち上げて見せた。
「いえ、僕はわからないですけど……」
「あ、そう。なんだろうなこれ?」
冷えた缶ビールを開け、のどを鳴らした。のどを通る爽快感と同時に、これまでの軌跡に対しての爽快感も感じていた。
はじめて映画に出演してからここまで永かったようであっという間だった。今まで僕は、この日のために頑張ってきたのだ。そして、真理子のために……。
さっきのマスターの話のせいか、どうしても思い出さなくてもいいことを思い出してしまう。
『もう終わったこと』だ。
さっきのセリフを、今度は自分に言い聞かせる。
ふう、っと一息をつき、半分ほど中身の残った缶ビールをテーブルに置く。疲れているせいか、いつもより少し苦味を感じた。
それにしても、あの袋はなんだったのだろう。気を紛らわせるためにタバコに火を点け、テーブルに置いた缶ビールを掴む。掴んだその手が空中で止まった。それまで気づかなかったが、テーブルの上に手紙が置いてある。
見慣れた筆跡で『幸正へ』と書かれた、封筒を恐る恐る手に取った。
『from真理子』
来たのか? ここに、真理子が。いつ、どうやって?
封を開け、中に入った数枚の便箋を取り出した拍子に何かがヒラリと床に落ちた。
写真だ。僕と真理子が写っている。この写真は……。
真理子からの手紙を読むのはこれで二度目だ。一度目は真理子が映画の撮影で三ヶ月間、日本を離れるその出発の日だった。僕に手紙をしたためた事を告げずに、静かにそれはマンションの食卓テーブルの上に置かれていた。
当時は嬉しくもあり、同時に寂しくもあったが、今日、彼女から手紙を貰う謂れはない。取り出した便箋に目を通した。
『幸正へ
まだ右も左もわからないくらいに若く幼かったあなたをみつけたのはもう八年も前のこと。
主演する映画に脇役として出演していたあなたは、どこか放っておけない妙な雰囲気を醸し出しながら、まるで群れからはぐれた草食動物のように不安で今にも泣き出しそうな顔をしていたわね。
それが新進気鋭の若手俳優だなんて言われているものだから笑っちゃうわよね……』
内容も去ることながら、文章を読むとまるで違う人間が書いたようで、性質の悪い悪戯だろうかと真剣に思ってしまうほど、真理子の要素が全くなかった。
性格や人間性など、手紙や文章というものは書いた人の人柄が出るというか、名前などなくても親しい人ならば誰が書いたものかわかってしまうのではないだろうか。以前、真理子から貰った手紙とは明らかに違った。
そんなことを思いながら、強烈な眠気に襲われいつの間にか僕は夢を見ていた。
「真理子さん、こっちですよ!」
「ちょっと待ってよ幸正くん、そんなに急がないでよ! わたし体力ないんだから……」
「じゃあ、こうすれば僕が待たなくても同じペースで歩けますね」
「えっ、あ、ちょっと、幸正くんて意外と大胆なのね。わたしちょっとドキドキしてきちゃった」
「ん~、何でしょうね? 僕も女の人の手を握って自分のポケットに入れるなんてことしたことないんですけどね。アレ? あったかな?」
「……あるの?」
「いや、ないような……あるような……」
「なんでそんなことわたしにわざわざ言うのよ、バカ!」
「あれ、もしかして怒ってます? 意外とかわいいですね、真理子さん」
「知らない」
「顔だけそっぽ向いてもしっかり手は繋がってますけど? 前見て歩かないと転びますよ」
「……」
「ほら、むくれてないでちゃんとこっち向いてください。それにヤキモチ妬いてもらえて嬉しいですよ。僕は」
「どうせ若くもないくせにヤキモチなんて妬いてウザいおばさんだなって思ってるんでしょ」
「若くもないなんて、真理子さんと同じ年代の女の人に言ったら多分、真理子さん怒られますよ。それに、僕としては少しウザいくらいがかわいくてちょうどいいんですけどね」
「……」
「あれ、真理子さん顔真っ赤ですけど、大丈夫ですか?」
「……」
「もしかして、照れてます?」
「もう! しらない!」
「うわあ、かわいいなあ真理子さん。それに、はじめてのデートで僕からここまで大胆なことはしたことないですよ」
「……本当?」
「アレ? あったかな?」
「信じらんない! バカ!」
「冗談ですよ。それに、まあその、僕達とっくに男女関係なわけで……」
「もう帰る!」
「あ、待って! そんなに怒らないでくださいよ。好きな人の手を握りたいと思うのはおかしなことじゃないでしょう?」
「……幸正くんは、私のことが好き?」
「はい。とっても」
「……」
「あの……、また顔が赤く、いや、真理子さん、そんなに睨まないで……。あの、真理子さん。ひとつ聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
「……なによ」
「僕、真理子さんのことを彼女だと思っていいですか?」
「えっ!?」
「いや、そんなにびっくりしなくても……。で、いいんですか?」
「……」
「顔がまた……。いいや。じゃあ、返事は後で聞かせてください。それよりもほら、またあのアトラクション死ぬほど並びますから早く行きましょう! こっちですよ」
「……うん」
写真モデル=シイナナルミ
撮影=飯岡拓也
スタイリング=TENTEN
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