「プロローグ 6階の住人たち」『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』①
公開日:2019/11/9

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!
プロローグ 6階の住人たち
「なにが原因だって?」
「あー、なんかタバコの火の不始末って、さっき消防の人が言ってましたよ」
「マジ? こんな日曜の夜中に外に出させやがって、ふざけんなって」
ガヤガヤとした中、目の前でマンションの住人たちがぼやいている。10月に入り、夜はだいぶ寒くなってきたというのに、彼らは裸足にサンダルだ。
8階建てのマンション。すでに就寝していると、警報器の音で目が覚めた。なんとなく変な匂いがして窓から下を覗くと、すでに外へ出ている住人たちが数人、そしてちょうど駐車場に入ってきた消防車が1台。それを目にして、慌てて家着にカーディガンを羽織って階段をおり、外へ出てきたところだ。
すでに鎮火したのだろう、消防の人たちが数人部屋から出てきて、なにやら会話をしている様子だ。彼らが出入りしているのは、3階の305号室。
「あぁ、よかった。たいしたことないみたいで」
隣から聞こえた鈴を鳴らしたような声に、私は視線を向けた。独り言かと思ったら、彼女はしっかり私の方を見ていた。
「そうね」
敬語を使わなかったのは、彼女は見るからに若かったからだ。下手したら10代に見える。でも、おかしくはないか。なぜなら、このマンションはひとり暮らし用の1LDK。周辺には専門学校も大学もある。
そう思って改めて、外へ出てきている住人たちを見回した。みんな家着やパジャマだから定かではないけれど、社会人から学生までが入りまじっているようだ。中には40代か50代くらいの男の人もいる。この人たちと住処である建物を共有していたのかと、なんだか不思議な気持ちだ。
「あのぉ、何階にお住まいなんですか?」
「……6階だけど」
「えぇっ! 私も6階なんですよー。605です」
「……あんまり大きな声で言わないほうがいいと思うよ」
彼女があまりにも天真爛漫にプライバシーをまき散らすものだから、私は周りをきょろきょろしながら人さし指を立てる。
警戒心のなさも若さゆえなのだろうか。そうじゃなくても、彼女は可愛らしくてフワフワした雰囲気だから、周りにいる独身男性の目をさぞかし引いているだろう。このマンションはオートロックではないから、ちょっと心配になってくる。
「へーっ! 奇遇! 私も6階」
「っ!」
突然背後から肩を叩かれ、心臓が縮む心地がした。同時に叩かれたらしい隣の彼女も「きゃっ」なんて高い声を上げて、一緒に振り返る。
そこには背が高くて格好いい人が立っていた。よく見ると、女だ。
「はい、握手握手。なかなかないからね、こういう機会」
口角を思いきり上げ、私と605の手を握ってブンブンと上下させる彼女は、ショートのストレートヘア。一見モデルか宝塚の男役みたいな女性だ。
「にしても、ホント迷惑、ボヤ騒ぎ。あ、ほら、なんか言ってる」
消防の人が、中に戻って大丈夫です、とみんなに案内しているのがわかった。ブツブツ言いながらそれぞれの部屋に戻っていく住人たち。エレベーターを待ちきれずに、階段をのぼっていく人たちも多い。
消防の人と長々と話しこんでいる人もいる。もしかしたら出火原因の帳本人、もしくはこのマンションの管理人なのかもしれない。
「ねぇ、キミさ、何歳? 名前なんて言うの?」
「私ですか? 野瀬川?穂乃、20歳、5月生まれの大学2年生です」
ぎょっとした。またもやベラベラと自分のことを話す605にもだけれど、軽いナンパみたいに聞く宝塚にも。
「あー、やっぱり大学生か。穂乃って名前、可愛いね」
「ふふ。ありがとうございます。嬉しいです。お姉さんは?」
「私はねー、稜。26」
「稜さん! なんかすごく合ってます。名前もカッコいいんですね」
なんだこれ。ていうか、もしこの女が男だったら、穂乃ちゃん、お持ち帰り余裕っぽい。
……ていうか、この中で一番年上は私か。まぁ、最初から見た目でわかってはいたけれど。
「あなたは?」
順番で回ってきた質問に、私はすかさず、
「あ、そういえば電話しなきゃいけないんだった」
と、今思い出したかのような演技をし、彼女らに「それじゃ」と言って足早にエントランスへ向かった。そして、エレベーターを待っている住人たちの横を通って階段をのぼる。勢いよくのぼっていたものの、4階くらいになると、運動不足もたたって息が上がってきた。
こんな時間に〝電話〟って……。
今さらながらわざとらしかったなと思いつつ、6階にようやくたどりつく。私の部屋、601号室は階段をのぼりきって一番最初にあるから、すぐにポケットから鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだ。
「……んは」
そのとき、背後を誰かがボソリと呟きながら通り過ぎていった。足音が聞こえなかったので心底驚いた私は、瞬時にそちらを見る。すると、おかっぱ頭の女性のうしろ姿が目に入った。彼女は通路を少し奥へと進み、603号室の前で立ち止まる。
「……こんばんは」
鍵がうまく差さらないのか、ガチャガチャと音を立てている彼女に一応挨拶を返し、私はようやくノブに手をかけた。
603号室なんだ、彼女。……あれ? 以前あの部屋から男の人がゴミ袋持って出てきたの見たことあるけど、あの人引っ越したのかな? それとも、彼女とか……?
その途端、ドアを開ける音がして、
「ギャッ」
と、潰された虫が発したような声が響いた。驚いてまた見ると、隣の隣、603号室のドアが半開きで、中から男の寝癖頭、そしてその前でうずくまり、おでこを押さえるおかっぱ頭の図。
「え? あれ? だれ? ていうか、ごめん。て、ん? なんで駐車場に消防車あるの? なにかあったんですか?」
「…………」
私はコントみたいなその場面に、まるでテレビを見ているような気がした。
というか、警報器と消防車の音に気付かずに寝ていたのだろうか。……こういう男が逃げ遅れるんだろうな。
「……えぇ……と、ここ何号室ですか?」
幽霊みたいな声で呟くおかっぱ。それにもかかわらず、
「うわっ、もしかしてどっかの階で火事? やべっ! 逃げなきゃ」
と今さらうろたえ始める男。私はすかさず、
「あの……火はもう消えたみたいなので、大丈夫だそうです」
と教えてあげる。その言葉でようやく私の存在に気付いた彼は、
「あ? あー……そう……ですか。よかった。どうも」
と答えた。そして、いまだにおでこを押さえてうずくまるおかっぱを見下ろす。
「つーか、大丈夫ですか?」
「ここ……何号室ですか?」
「603ですけど」
「すみません、間違えました」
一度も彼の顔を見ずに体を起こした彼女は、そのまま目を合わさずに頭を下げ、そして私のうしろを猫背で通り過ぎて階段をおりていった。
「…………」
なんだったんだ、今の。私は眉間を押さえて自室のドアを開ける。その際、603号室の男が欠伸をしながら、
「どーも。おやすみなさい」
と言った。私は、
「どーも」
とだけ返して小さく会釈をし、ドアを閉めた。
ようやく部屋に戻れたことで肩の力が抜け、大きな大きなため息をつく。すると、廊下を歩く女同士の楽しそうな話し声が近付いてきた。
あぁ、さっきの穂乃ちゃんと、えーと……稜って人。
「ん?」
……アンド、男の声もひとり分。
「ハハ、じゃあ、隣の606から聞こえてくる笑い声、アンタだったんだ」
「うわ、聞こえてたんだ。恥ずいっすね、私」
「うふふ。稜さんの笑い声、私も聞いたことありますよ」
「マジで? テレビ見てバカ笑いするの、やめなきゃ」
話し声は部屋の前を通り過ぎ、遠く「それじゃ」とか「おやすみなさーい」という声が聞こえる。
「…………」
いやでもわかってしまった。
6階には601号室から607号室まで、604号室を除いた6部屋がある。そのうち、私の部屋は601で、隣の602は空室。603はさっき私に『おやすみなさい』と言った男、605は穂乃ちゃん、606が稜って人で、607が彼女たちと今喋っていた男。
玄関のドアに寄りかかったままの私は、またもや眉間を押さえた。
彼女らはアホなんだろうか。同じ6階で仲良しごっこを始めようとでもいうのか?
「……ハ」
関係ないか。みんなそれぞれで、したいようにすればいいだけの話だ。
「寝よ」
私は靴を脱いで、玄関を上がった。ハンドソープで手を洗ってうがいをし、カーディガンをハンガーにかけて、ベッドに座る。
もう一度深く息を吐いて、リモコンでシーリングライトを常夜灯にした私は、ごろんと横たわった。掛け時計を見ると、午前3時を回っている。しばらく寝られないのはわかっていたから、オレンジ色のライトをぼんやりと見上げた。
「…………」
滑稽な話だ。
生活のリズムがちょっとずつ違っているからなのか、今まで一度もちゃんと顔を合わせて話したことがなかった。それなのに、こんな真夜中に、同じ6階に住む人間を全員知ることになるなんて。
「ホント……変なの」
連載継続中の第3章以降はコチラ。