セフレ女から「今日ヒマ?」のメール。コミュ障の女は魚のことになると喋りが流暢になって…『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』④
更新日:2019/11/12

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!
「うわっ」
タクシーから降りてエントランスに入ろうと短い階段をのぼっていると、ゴキブリでも見たかのような女の声がした。顔を上げると、集合ポストのところからちょうど階段に出てきたらしいお菊人形が立っている。夜だし、気配に気づかなかったのか、びっくりした顔をしていた。
この前と同じ黒のスキニーだけれど、今日は上着も黒。全身黒ずくめの彼女を前に、うわっ、と驚くのはこっちだ、と心の中でツッコみながら、
「こんばんは」
と挨拶をする。
「……ばんは」
「てか、やっと会えた。よかった」
ポケットに手を突っ込みながらそう言うと、サラサラなのにもかかわらず、何度も髪を手櫛で整えるお菊。隙間から見えた額の絆創膏は、小さいものになっていた。少し髪が濡れていて、? も上気しているように見える。風呂上がりなのだろうか。
「おでこ……大丈夫?」
「……あ、はい。もう、はい、ほぼ完治です」
「ごめんね」
「いえ、もういいです、そんな。謝罪の品もいただきましたし」
頭をかきながら、逆に何度もペコペコするお菊。
そうだった。発泡酒を略奪されたんだった。そう思い出しながら、俺は袋を取り出した。
「これ、落とし物ふたつ。あ、ハンカチは一応洗濯してるけど、気になるようなら洗ってください」
「落とし物……」
そう呟きながら袋を受け取った彼女。607の男に何度もコンタクト取ろうとしたんだけど、と説明をすると、
「“代わりに返しておいてください”ってメモ貼って、伊崎課長の郵便受けに入れておけばよかったのに」
と小声で言われ、俺は固まった。彼が“伊崎”という名前で“課長”なのだということはともかく、たしかにそうだ。なぜ考えつかなかったのだろう。でも……。
「…………」
そんな言い方はないのじゃなかろうか。
ゴホンと咳払いで表すと、きょとんとしたビン底の奥の小さな目でこちらを見た彼女。慌てて、
「あっ、そうだ。すみませんでした。わざわざ、あっ、あり、ありがとうございました」
と、また髪を手ですきながら三度ほどペコペコと頭を下げた。
やっぱりこの女、ちょっと変だ。
そう思っていると、袋から金具の取れたキーホルダーを取り出した彼女が、「あぁ、よかった。捜しても出てこないから、もう半分あきらめてた」と言って、微笑む。
「フグ、好きなの?」
なんとなくだった。なんとなく、その顔を見て聞いてみた。
「え? あ……はい。顔と、フォルムがなんともいえなくて。コンゴウフグとかシマフグとか……あと、ハコフグ科のえっと……オーネ……」
「オーネイト・カウフィッシュ?」
「そう! そうです。それのメス!」
「あー、たしかにオスよりメスのほうが模様が……」
そこまで話して、はた、と止まる。この女……もしかして……。
「魚、好きな人?」
「はい。部屋でも飼ってます。グッピーとエレファントノーズフィッシュを別水槽で」
「えっ? エレファントノーズフィッシュ飼ってんの!?」
ちょっと声が裏返ってしまった。まるで、小学校のときに、必死で集めていたキャラクターシールの激レアものを持っていると聞かされたときみたいだ。
「へー……」
見たい。
咄嗟にそう思ってしまった自分に、微笑を固める。
いやいや……ない。それは、ない。いくらなんでも、こんな得体のしれない不気味コミュ障、もとい、ほぼ初対面の女性の部屋に上がろうなんて、非常識だ。向こうから「見ます?」と言われたら別だけれど。
「…………」
お菊を見ると、彼女はなぜかホクホクしたような顔で俺を見ていた。思いがけず魚の話ができる相手だとわかり、喜びを感じているのが見て取れる。現に、俺もそうだ。少なからずテンションが上がっている。だから……。
言え、「見ます?」と。
「……あ、それじゃ、コンビニ行くんで」
「え? 今から?」
「はい」
「あぁ、そう。それじゃ」
夜道は危ないから一緒に、と言うには関係性が薄く、また、コンビニも近すぎた。俺も毎日のように通っているコンビニは横断歩道を渡った斜め向かい側、マンションからも見える位置。この便利さは、俺がこのマンションに住む決め手のひとつにもなったくらいだ。
手を振るでもなく互いに微妙な会釈をし、反対方向へと足を進める。まったくなにもないのに、誘いを断られたときと同じような心境なのはなぜだろうか。俺は、小さく首を傾げながら部屋へと帰った。
翌日の日曜日は、よく晴れた。秋晴れとはこのことかと思いながら窓を開け、ベランダに布団を干す。べつにひとり暮らしだから当たり前のことだけれど、男の自分がひとり分の布団を干しているこの状況には、若干のわびしさを感じてしまう。今日は、なんの予定もなかった。
トーストを焼き、遅い朝食を取っていると、網戸にした窓の外から、どこか懐かしさを感じる音楽と、時折ピストルのような破裂音が遠く聞こえてくる。
「あぁ……運動会の季節か」
独り言を言って、俺は棚のカレンダーを見た。そして、その横に置いたままの空の水槽に目を移す。横幅50センチほどのその水槽は数年前から空のままで、最近は拭いてもいないからホコリをかぶっている。
「じゃあ……ガキは少ないかな」
そう呟くと、俺は残りのパンの耳を口に入れて立ち上がった。
水族館に着いたのは、正午前だった。それもあってか、日曜なのにそれほど混んでいなくて、俺はいつものようにゆっくりと水槽を巡る。
「あれ? このカサゴ、新しく入ったヤツか?」とぼそりと呟いていると、たまたま横にいた幼児の女の子が「え?」と言った。俺は、「いや……」と誤魔化して、クラゲのコーナーへと移動する。
青いライトが照らすほの暗い水槽を、ゆっくりゆらゆらとたゆたうクラゲ。大きな円柱状になったその水槽の前にはクッション性の高い椅子が並んでおり、俺はその一番端に腰かけた。
……あぁ、落ち着く。
魚は昔から好きだった。図鑑がボロボロになるまで何度も見ていたことを思い出す。
水族館で魚を見るのも、水族館自体の雰囲気も好きだ。水の中で器用にマイペースに泳いでいる魚の様子、そしてあたかも自分も水の中にいるような青と透明の空間に、心の底から癒される。
【こんにちは。枦山さん、今日ヒマ?】
スマホの通知にメールを見ると、ミズキからだった。ミズキというのは、半年前からのセフレ。遠恋彼氏持ちで、自分の休みが月曜だからといって日曜にばかり誘ってくる女だ。
一週間前に泊まりにきたというのに、もう欲求不満なのか? アイツ。そう思いながらも予定もないしまあいいかと、承諾のメールを返そうとしたとき。
「あ! いた! カエルアンコウ!」
さっきのカサゴの水槽のところで声を上げた女がいた。自分が出した声の大きさに自分で驚いたのか、パッと口を押さえて恥ずかしそうにし、そしてまたすぐ食い入るように水槽を覗き込んでいる。
「…………」
声と髪と眼鏡でわかってしまった。……ヤツだ。
若干引いてしまったものの、俺の胸はウズウズしていた。……カエルアンコウ? いたか?
「……どこ?」
即座に立ち上がって水槽の前の彼女の横まで行った俺は、ガラスに顔を近づけて眉を寄せる。
「……っ!!」
すぐ隣でのけぞったお菊。俺だとわかると、「……び、びっくりしたぁー……」と細い声を出した。俺はお構いなしにカエルアンコウを探す。
「いないけど」
「いえ、ここ。この岩のところにいます。必死で石と同化しようとしているけなげなアンコウくんが」
この女、いつもオドオドしているくせに、魚のことになると喋りが流暢になる。
「あ? これか?」
「そう、それそれ」
「ハハ、ホントだ。すげー。けなげけなげ」
「でしょ?」
「よく気付いたね、これ」
「さっき館の人に聞いたら、新しいカサゴとカエルアンコウが入ったって聞いて」
「へー、さすが」
「へへへー」
「…………」
連載継続中の第3章以降はコチラ。