「男女の友達でも距離は保つべきだけど、居心地が良すぎて…」『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』⑨
公開日:2019/11/16

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!
「どうも。朝ぶり」
「ど、どうも。……って、自宅で待っててくだされば、届けに行ったのに」
「ああ、そっか。気付かなかった。まぁ、すぐ帰るって聞いたし」
5階の通路、503号室の前で待っていた俺を見て、「すぐに持ってきますね」と急いで家の中に入るおき……奥野塔子。
あれから伊崎さんに電話をかけてもらうと、奥野塔子は街まで買い物に出かけていたらしく、ちょうど電車から降り、あともう少しで着くとのことだった。だから5階で待っていただけで、決しておばけが怖かったわけではない。
「はい、どうぞ」
「……どうも」
DVDを受け取ると、玄関で妙な間が生まれた。そのまま「ありがとう」と言って帰ればいいのに、先ほど伊崎さんと話したことがひっかかっていて、複雑な気分だ。
「買い物……なに買いに行ったの?」
「え?」
間を持たせようとして、また踏み込みすぎた。奥野塔子も前回同様、またハトが豆鉄砲を食らったような顔になる。
「コ……コンタクトレンズの受け取りと……本……というか図鑑を……」
「図鑑? 魚の?」
「……です」
そう言って、出版社名と図鑑のシリーズ名、新装版だということを説明する奥野塔子。
「それ、俺の実家にもあるやつだ。てか、新装版とかあるの?」
「はい。付録でDVDがついてるってことでつい買ってしまいました」
「…………」
DVD……? なんだと?
見たい、という言葉が閉じた口の中に充満する。
「と、枦山さんは、ほかに図鑑とか持ってます?」
「あぁ、実家にはその図鑑があって、今家にあるのは……」
そう言って説明すると、
「ええっ? それ絶版になったやつじゃないですか! 私、前から探してて、本当はそれが欲しかったんです」
と、厚い眼鏡の奥の小さな目を精いっぱい見開く奥野塔子。
「見たいです! 付録のDVDをお見せするので、あのっ、よければその図鑑……」
「ホント? いいよ。じゃあ、持ってくる」
「ありがとうございます! 嬉しいですっ」
喜びをあらわにする奥野塔子を見て、なんとなく鼻が高いような嬉しい気分になる。俺は、「待ってて」と言ってドアを閉めた。そして、意気揚々と階段をのぼる。
「……ん?」
6階に着いたところで、俺はもう一度「ん?」と言って首を傾げた。
急いで車でレンタルショップへ返却に行き、戻ってきたその足で図鑑を手に奥野塔子の部屋を訪ねる。すぐに開いたドアと「どうぞ」との言葉に、俺はまた導かれるように玄関を上がってしまった。
「はい、図鑑。返すのいつでもいいから」
「うわっ、借りてもいいんですか!? ありがとうございます」
図鑑を手にした奥野塔子は、大事そうにそれを胸に抱きしめて、恍惚とした表情を見せた。たぶん、普通なら引いてしまうであろう顔だけれど、やはり俺はその顔を見て満足感を覚える。
それよりなにより、入ってからずっとこの鼻とこの腹をくすぐるかぐわしい匂いはなんだ。食欲をそそる、肉が焼けるような……。
「あの、まだでしたら、た、食べますか?」
キッチンを横切る際にフライパンの中を覗けば、ハンバーグがふたつ、いい色でいい音を立てていた。犯人はコイツだった。
「食べる」
俺は即答する。
「じゃあ、あとはソース作るだけなので、ソファーのほうで待っててください。付録のDVDセットしてるので、勝手にリモコン使っていいですよ」
「あ……うん」
言われるままにソファーのところまで行くと、水槽のほうを見た。エレファントノーズフィッシュがにやりと笑ったような気がして、目を擦る。そして、ソファーに腰を下ろした。
「…………」
……ヤバイぞ。最高だ。
メシもあって、魚もいて、付録DVDもあって、もし、ここに……。
「あ、あの発泡酒買ってきてますけど、先に飲みます? ご飯と一緒か、食後がいいですか?」
……完璧。
俺は愕然とした顔で奥野塔子を見た。眼鏡とお菊ヘアの彼女は、手でちぎっているレタスを片手に俺に微笑みかける。
「……今……いや、食後で」
「わかりました」
俺は顔を戻して額を押さえた。
なんてことだ。居心地が良すぎて、一瞬、恋愛感情抜きでも結婚したいと思ってしまった。でも、これは……アレなんだよな。伊崎さんのアドバイスありきなんだよな。だって……。
「ねぇ、ホントありがとう。なにか手伝うことある?」
「え? いえっ、そんな、図鑑のお礼です! そっ、それに、お、お友達なので、そんな、気を使うことないですっ」
ほら、微笑みかけたら真っ赤になって、めちゃくちゃ俺を意識しているのがわかる。おそらく、奥野塔子はすでに俺のことを……。
『男女の友達でも距離は保つべきだし、期待させちゃいけないと思います。もしくは、ちゃんと正式につきあうか』
そこまで考えた途端に、さっきの穂乃ちゃんの言葉がリアルに脳内に舞い戻ってきた。俺は、ようやく持ったリモコンをそのままに、また固まってしまった。
「ごちそうさまでした」
「おそ、お粗末さまでした」
食べ終わった俺を見て、またもや米を口いっぱいに?張りだす奥野塔子。俺は、「だから、急いだら、またむせるよ」と笑う。
「本当に美味しかった。ハンバーグも、サラダもドレッシングも、やっぱり味噌汁も」
「ほ、ほかったれす」
よかったです、と言ったのだろうか、奥野塔子はくぐもった声でそう返した。
ダイニングテーブルで正面じゃなく斜め前に座りながら食べるのは、カレーのときと一緒だ。俺は奥野塔子のほうを見ながら?杖をつき、体を傾けた。
「奥野塔子さん」
俺が急に名前をフルネームで呼んだから、彼女はご飯の塊をのんだらしい。一瞬の沈黙の後でとてつもなくむせて、ゴホゴホ言いながらお茶を飲んだ。
「ごめん。今日伊崎さんに聞いたんだ。ていうか、今日まで聞いてなかったのが不思議だけど」
「そうですか、伊崎さんに」
合点がいったようで、奥野塔子はもう一度咳をしてからティッシュで口を拭う。
「なんて呼べばいい? 奥野さんが無難かな」
「なんか同僚みたいですね」
「そっか、たしかにちょっと距離のある呼び方か。じゃあ、奥野?」
「伊崎課長みたい」
奥野塔子は笑った。
「じゃあ、塔子さん? なんでだろう、なんか年上の人妻みたいだ」
「やめてください」
今度は真顔で返される。
「よし、それじゃあ塔子で」
「…………」
「ダメ?」
小さな間があった。奥野塔子は立て続けに3回瞬きをして、ゆっくり口を開く。
「ダメ……じゃないです。なんか、友達みたい」
「友達じゃん」
「そっか」
そして、ヘラッと笑った塔子。「そうでした」と言ってはにかみ、ご飯をひとすくいして口に入れる。モグモグした後でまた、「そうか」と、茶碗に呼びかけるような小声で繰り返した。
連載継続中の第3章以降はコチラ。