猫好きな人にもあえて『私はネコが嫌いだ。』を読んでほしい。その理由は?
更新日:2020/2/22

2月22日は、ニャンニャンニャンという語呂合わせで「猫の日」です。ロシアでは3月1日、アメリカ合衆国は10月29日、国際動物福祉基金が制定したInternational Cat Day(World Cat Day)は8月8日――にゃ~んていう豆知識を交えつつ、いまや「私はネコが好きだ!」は世界の共通語だと言っても過言ではないでしょう。
だというのに…! 私は本屋さんの「ネコ本」特設コーナーで、見つけてしまったのです。
それは『私はネコが嫌いだ。』(よこただいすけ/つちや書店)という1冊の絵本。
でかでかと「私はネコが嫌いだ。」と書かれた表紙の真ん中には、くりっとまん丸い目のかわいいクロネコが描かれている。この子を嫌いだというのかっ!? にゃんともけしからん! と手に取った私でしたが…数分後には涙をこらえながらその本を持ってレジに並んでいました。
私はネコが嫌いだ。
物語の中でたびたび発せられる語り手“私”の言葉の意味が、読み手の心の中で変わっていくのです。その理由をお話しします。
なぜ、頑固オヤジはネコが嫌いなのか?
この物語の主人公“私”は、昭和の名優・金井大さんを思わせる、いかついしかめっ面の頑固オヤジ。いまどき万年筆で原稿用紙に向かう昔ながらの職人気質を持つ作家のオヤジです。
そんなオヤジの娘さんがある日拾ってきたのは「全身真っ黒で縁起の悪いネコ」でした。
そんなクロネコは、オヤジに対して、迷惑をかけ続けます。医者の前では元気なくせに、「ゲップもうんちもできない」「いつまでたってもトイレを覚えない」「腹が減れば夜中だろうと騒ぎだす」「仕事の邪魔をする」…さらに、布団の上にどさっと丸まり「眠りの邪魔をする」。だから、“私”は言う、
私はネコが嫌いだ。
これって、ネコあるある(ペットあるある)のひとつ。ネコを「好きな人」にしてみたらかわいいし許せることだけれど、「嫌いな人」からすれば、なにひとつ楽しくない。
頑固オヤジは、本当にネコが嫌いだったのか?
でも、“私”は本当にネコが嫌いなのだろうか。頑固オヤジとクロネコの日々が描かれた、それぞれの「絵」を見ると…。
娘が拾ってきたクロネコは、「オヤジにゲップさせてもらっている」「オヤジの座布団にオシッコをする」「オヤジの枕元でエサをせびる」「オヤジの仕事を邪魔する」「オヤジの布団の上で寝る」…とオヤジのそばにつきっきり。
私はネコが嫌いだ。
頑固オヤジは一度たりともクロネコをかわいがったり、なでてやったりしない。ずっと、ずうっと、しかめっ面でクロネコをにらみつけている。
でも、クロネコはうれしそうに、時には「ごめんなさい」の顔で、“私”のそばにいる。明らかにクロネコは“私”に懐いているし、飼い主=“私”だと思っている。
そして“私”は、嫌いなネコを追い出そうとはしない。
「私」のネコは幸せだったのか?
ネコ嫌いな“私”とクロネコにも、「そのとき」は訪れる。
三年前から急に老け込んできた。
ネコが嫌いな“私”にとって、それはある意味「朗報」です。「通院費もバカにならん」し、いなくなってしまえば「少しは気も楽になる」はずです。
でも、「歩く力なんて残ってないはず」のクロネコが、最後に向かったのは――頑固オヤジの仕事机。“私”の膝の上でした。
当然です。嫌いだと言い続けながら、ネコが老け込んでくるまでの長い年月をともに暮らしてきたのです。
いまどきなら、ネコは15年から20年近く生きます。
「私は猛反対したが 娘の熱意に負けた」はずなのに、飼い主の娘は、最後のときに、ネコのそばにはいません。遠くで暮らしているのか、自分の家庭を作り独立したのかは、わかりません。でも、娘はクロネコを置いていき、“私”はクロネコの最後の瞬間に一緒にいたのです。
別れの際に、小さく小さく2回鳴いたクロネコに、“私”は言います。
私はネコが嫌いだ。
こんなにも悲しくて、優しい「嫌い」という文字があったなんて。
そのときの“私”の表情、別れの瞬間は、ぜひ本書を手に取って、見てください。
文字では表せない愛情が絵からあふれ出て、読み手の心を温かくします。
涙をこらえ、レジに向かったのは、そういう理由なのです。
猫の日に、この本を読んでほしいのは、そういう理由なのです。
『私はネコが嫌いだ。』が大好きです。
文=水陶マコト