教え子の告白に「五年後に言ってくれたら」と告げた夫――私は本当に彼に愛されていたのか
公開日:2020/7/11

一体、いつのまに自分はこんなにもずるくて、弱い人間になってしまったのか――…。家族や同僚、友人などと関わる日常の中で、そんなドロドロした感情が胸にこみあげてくることがある。誰かを見下すことで安堵したり、身近な人のことを「便利」だと捉えてしまったりする嫌な自分からは、できれば目を背け続けていたい。だが、『五年後に』(咲沢くれは/双葉社)はあえて、そんな心の弱さを抉る。これは傷を抱えた私たちが前を向くために必要な1冊だ。
本作は第40回小説推理新人賞を受賞した「五年後に」を含む、短編集。元教師である作者が描いたのは、4人の教師の弱さと強さ。彼らの生々しい本音を通して、私たちは自分という人間を知る。
教え子に最愛の夫を奪われて…
各ストーリーに登場する人々はみな、それぞれ違った孤独感や生きづらさを抱え、何かを諦めながら生きている。その姿はどこか自分と重なり、心がヒリヒリしてしまう。特に、書籍名にもなっている「五年後に」には誰かを愛するがゆえに生まれる嫉妬心や悪意、恐怖が生々しく描かれていて、「この感覚、分かる」と思わされる。
中学校教諭の安崎華はある日、女子生徒から、とある男性教諭に告白したら「五年後に言うてくれたらうれしいのに」と言われたことを聞き、似た言葉を自分と教え子の栃村柚香に告げた夫・啓吾のことを思い出す。
“ふと、あの人もこの程度の軽さだったのだろうかと考える。みんなそうなのだろうか。男はみな、こんなふうに女の子の気持ちを軽く受け止めて、そして流してしまうものなのだろうか。”(引用)
華は大学4回生の時、教育実習先の中学校で出会った国語教諭の啓吾に恋をした。他の女性と交際中であることは知っていたものの、勇気を出して想いを伝えると、啓吾は「五年後に言ってくれたらもっとうれしいのに」と言った。そんな彼に華が「二番手でも構わない」と告げたことから交際は始まり、その後、2人は結婚したのだ。
最愛の人との幸せな結婚生活。…それを壊したのが、柚香だった。啓吾に想いを寄せていた柚香はある日、告白をし「五年後に言ってくれたらもっとうれしいのに」と告げられた。時が経てば、自分のことなど忘れるだろうという啓吾の想いは届かず、その言葉を離婚の意志があると捉えた柚香は数日後、華たちが住むマンションへ。啓吾は柚香を玄関先で追い返したが、悲劇はその後に…。なんと柚香は啓吾の腕を掴み、車道へ。車にはねられて啓吾は死亡したが、柚香は一命をとりとめた。以来、華は年に1回、柚香を見舞うため、彼女の家を訪れている。
最愛の夫の最期の吐息や血、体温など、すべてを柚香に持っていかれたという憎しみから、華は啓吾との間にもうけた息子をわざと見舞い時に連れていく。大きくなるごとに夫に似てくる息子の顔を憎い相手に見せつけることが華にとって、精一杯の復讐となっていた。
しかし、柚香を前にすると、不安もこみあげてくる。期待を招くようにも思える「五年後」を口にした夫はどんな心境だったのか。もしかしたら、2人には自分が知らない何かがあったのでは…。昔、同じ言葉をかけられ、啓吾を略奪したからこそ、華は言いようのない恐怖に苦しめられてしまうのだ。
私はたしかに愛されていた。でも本当にそうだったのだろうか…。そう思い悩む華が一体どんな答えを出し、柚香や自分と向き合っていくのかを、ぜひ見届けてみてほしい。
日常の中のふとした場面で嫌な自分に気づくと、聖人君子になれたら楽なのに…という想いがこみあげてくることもある。だが、人間臭い感情があるからこそ、私たちは同じように苦しむ誰かの心を思いやったり、誇れる自分になろうと努力したりできるのかもしれない。自分の中の闇に目を向けてこそ、見える希望がある。そう気づかせてくれる本作は人の心を育てる職業に就いていた作者だからこそ生み出せた1冊。もしかしたら、これは作者による「心の再生を図る授業」なのかもしれない。
文=古川諭香