10畳ほどの幽世の貸本屋は謎だらけ。新刊棚の傍を通って奥に声をかけると…/わが家は幽世の貸本屋さん③
更新日:2021/3/29
現世とは別にある、あやかしがはびこるもう1つの世界「幽世(かくりよ)」。そこに幼い頃に迷い込んでしまった夏織は、幽世で貸本屋を営む変わり者のあやかし・東雲に拾われ、人間の身でありながらあやかし達と暮らしている。そんな夏織は、ある日、行き倒れていた少年・水明と出会う。現世で祓い屋を生業としているという彼の目的は「あやかし捜し」。あやかしに仇なす存在とはいえ、困っている人を放っておけない夏織は、ある事情で力を失ってしまった彼に手を貸すことにするのだが――。切なくも優しい愛情にまつわる物語。

「なぁん」
やがて通りの端までたどり着くと、にゃあさんが一声鳴いた。
そこには一軒の店があった。他の建物と比べると、ややボロっちい二階建ての木造家屋。
一階の一部が店舗で、壁にはボロボロになった木の看板が辛うじて引っかかっている。
看板には「貸本」と書いてあった。
そう、ここが私の実家。幽世で唯一の貸本屋である。
「ただいまー」
奥に向かって声をかけながら、ガラス戸に手をかける。するとお香の香りが鼻をくすぐり、周囲にいた幻光蝶が弾けるようにして消え去った。からりと戸を開けて、店内に足を踏み入れる。床板が軋んだ音を上げると、途端に空気感が変わった。
十畳ほどしかない店内の壁一面には、天辺が見えないほど背が高い本棚が設えてある。本を取るための梯子。傷だらけで古めかしい――それも、かなりの長さのものが本棚に沿うようにいくつも立てかけられていて、誰かが登ってくるのをじっと待っている。使い込まれ、飴色に変色した本棚にはカラフルな背表紙がみっしりと並び、幻光蝶が入れられた吊り下げ照明が放つ暖かな灯りが、暗い店内でぼんやりと本たちを浮かび上がらせている。外観からは想像つかないほど天井が高いので、新規のお客さんにはいつも驚かれる。母屋には二階に続く階段があるのだけれど、不思議とそう登らないうちに上階にたどり着く。更に言うと本を仕入れても本棚が足りなくなったことがない。ついでに棚が余ったこともない。店主に店の秘密を尋ねてみたこともあるけれど、企業秘密だと教えてくれなかった。
幽世の貸本屋は、謎がたくさん詰まった店でもある。
店の中央に置かれた新刊棚の傍を通って、もう一度奥に声をかける。
「寝ているの? ただいまってば!」
「おう……。おかえり……」
すると、息も絶え絶えな声が聞こえてきて、またかと肩をすくめた。
奥にある母屋に繋がる引き戸を開くと、畳の上で倒れている男性の姿が目に飛び込んできた。そう、この人こそ「変わり者」のあやかし……幽世に迷い込んだ私を育ててくれた養父だ。見た目は四十半ばほどに見える壮年で、普通にしていれば渋いと評価されそうな顔を、無精髭と眠そうな顔で台無しにしている。黙っていれば侍顔、しゃべると残念顔と評したのは、彼の長年の友人である。これだけなら、どこにでもいそうな中年だ。けれども、額から生えている二本の角、それに肌にうっすらと浮かび上がった鱗模様が、彼が人間ではないことをありありと示している。
私は大きくため息をつくと、足もとに散らばっていた紙を拾い上げた。ちゃぶ台の上には、養父が書き散らかした原稿と手つかずの昼食があった。
「東雲さんったら、またご飯も食べないで執筆してたのね。お腹空き過ぎてぐったりするぐらいなら、ちゃんと食べてよ。いつか体を壊しても知らないからね」
「お前が帰ってくりゃあ、一緒に飯を食うんだからいいだろが」
東雲さんは、こちらを見もせずにそう言うと、白髪交じりの髪を長い爪で弄った。その様子を見て、またため息を漏らす。
畳の上で転がっているせいで、一張羅の小袖はぐちゃぐちゃに乱れ、裾からは白い股引きが覗いている。毎日毎日、口を酸っぱくして注意しているものの、いつもこの調子だ。父親には恰好よくしていて欲しい娘ごころを、どうしても理解できないらしい。
「ちゃんとしてよ! だらしない!」
いつものように抗議をすると、東雲さんは面倒くさそうに手をひらひらと振った。
「キーキー喧しい。……どうしてこんな風に育ったかね。早く嫁に行け、馬鹿娘」
「東雲さんがまともに生活できるようになるまで、嫁になんて行けるわけがないでしょう。嫁ぎ先から里帰りしたら、父親が干からびていたなんてまっぴらごめんよ」
「ぐぬ……」
図星を突かれたのか、東雲さんはカチカチになってしまった昼食のおにぎりを気まずそうに見ている。私は腰に手を当てると、ぐうたらな養父に発破をかけた。
「今日の晩御飯は、東雲さんの好きなメンチカツだよ。さっさと片づけないと、私だけで食べちゃうんだから」
「マジか」
途端に、東雲さんの目の色が変わった。
「酒は?」
「一本までなら」「よっしゃ!」
途端に、張り切って片づけ始める現金な養父に苦笑しながら、私はエプロンを着けて台所へ行こうとした。すると、足もとにふわふわした大きな毛玉が絡みついてきて、転びそうになってしまう。
「コラ、にゃあさん、あぶな……っ」
「……あたしのお刺身は?」
じっと、つぶらな瞳で見上げてくるにゃあさん。いつも半目で眠そうなことが多いくせに、こういう時だけは目を爛々と輝かせて見つめてくるのはずるいと思う。
「あるよ」
「んふふ。ならいいわ」
にゃあさんは嬉しそうに喉を鳴らすと、部屋の隅に放っておいたらしいおもちゃを、パクリと咥えて運びだした。
……うちの家族は揃いも揃って……!
思わず脱力しそうになりながらも、私は腕まくりをして台所に向かった。