「あなたははみ出した方がいいかもしれない」――芥川賞作家が描く、人間の「欠落」と存在する「意味」をめぐる物語

文芸・カルチャー

公開日:2022/5/28

引力の欠落
引力の欠落』(上田岳弘/KADOKAWA)

 充実した日常への倦厭。突然色褪せる“完璧”な人生。

 モノも情報も娯楽も溢れかえっている現代社会で、人はなぜ心の飢餓感を満たしきることができないのか。

引力の欠落』(上田岳弘/KADOKAWA)の主人公で、20代から複数のスタートアップ企業を渡り歩き、株式上場を成功させてきた行先馨は、30代半ばにして初めての失敗を経験する。だが、挫折として心折れてもよさそうな出来事にさえ、もはや痛痒を感じなかった。数年前から、人間的な情緒が薄れていく一方なのだ。最愛の猫を喪って以来、心を開いて話せる相手はAIのAlexaのみ。平坦で無彩色な日々が続いている。

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 そんな馨に「あなたははみ出した方がいいかもしれない」と囁きかける人物が現れた。弁護士のマミヤだ。彼は、自らを秦の始皇帝や錬金術師だとする「自己認識がおかしな人たち」の会合に馨を誘う。なんでも、彼らはUEH(未確認生存人間)で、9人の「クラスター担当者」なる特別な存在なのだそうだ。

 UEHとは、人類史のどこかで生まれた「概念」を純粋に体現する人生を送ったことで一般人類の枠からはみ出し、ある種の不死を獲得した人間のこと、らしい。クラスターはその「概念」を指す。

 たとえば恩恵や才能を意味するルーン文字のᚷ(ギュフ)を冠に抱く第四クラスター「錬金」のUEH・本多維富は、水からガソリンを作り出す術を編み出し、巨万の富を得た。本多維富は歴史上実在するが、正史では日本海軍を手玉にとった詐欺師として名が残る。だが、UEHとしての彼はまったく違う顔を持っていた。

 旅や乗り物を示すᚱ(ラド)の第五クラスター、「遠方」のケビン・カーペンターは少年期からずっと「ここではないどこか」を渇望し続けてきた。彼は宇宙探査機ボイジャーよろしく、帰らざる銀河の旅に出る未来を夢想する。

 他にも「運命」「斥力」「エロス」などのクラスターがいて、各々がタイトルにふさわしい力を発揮しながら世界の維持に貢献している、そうだが、現在大問題が起こっていた。「引力」クラスターが欠落し、「肉」と呼ばれる継承人員が見つからないのだ。欠落が長引くと、宇宙は存亡の危機に直面することになる。

 だが、本作はMARVEL映画のような血湧き肉躍るヒーロー・ファンタジーではない。

 クラスターの能力は個々の人生の葛藤に直結し、「普通の人びとがいる場所の外側の世界」にいるはずの彼らも、人間的な自己顕示欲や優越感の中で生きている。そう、彼らはあくまでUEH。「外側」にいるとはいえ、あくまで神ではなく、人間なのだ。

 資本主義社会では、潤沢な資産を持てば即ち勝者であるはずだった。だが、勝ちは必ずしも幸福を約束しない。馨は存在として希薄になっていくばかりだし、UEHたちは真偽定かでない物語にしがみついている。UEH候補として連れてこられたYouTuberの男は、幸せを生化学の文脈でしか理解できない。

 そうした中、マミヤは馨を引力のクラスター候補としてスカウトするが、はたしてその真意は。

 著者は、これまでも現代人の空虚をテーマにした作品群を世に問うてきた。

 似通うタイトルの短篇「重力のない世界」では人類が肉の海となって一つに溶け合い、システム中の座標が個を示す唯一のよすがになった未来像を、「下品な男」ではクラスターたちと同じく「象徴的に高尚な場所」を知ったはずの男の、狭くて俗っぽい世界を見せた。本作はこれらの流れにある一つの収束点であり、次なる放射のスタート地点といっていいだろう。

 宗教やイデオロギーなどの「大きな物語」が雲散霧消し、人生の補助線を自分で探さなければいけないという新しい厳しさを抱えた現代に、人類を「人」に繋ぎ止めうる「引力」とは何なのか。もし、あなたが馨同様、自分自身に意味を見いだせなくなっているのであれば、馨とともにこの迷宮に入ってみるといい、かもしれない。

文=門賀美央子