「自分から逃げたいと思った時、仮面が救いになることもある」──鯨井あめ×柿原朋哉/匿名時代の作家対談

文芸・カルチャー

公開日:2022/9/20

柿原朋哉さん

 登録者数140万人超のYouTubeチャンネル「パオパオチャンネル」で活躍してきたぶんけいさん。映像作家、ファッションブランドディレクターなど多くの顔を持つ彼が、新たに挑戦したのは小説の世界だった。

 本名・柿原朋哉名義で刊行した初の小説『匿名』(講談社)は、覆面アーティスト「F」と彼女の歌声に命を救われた25歳の越智友香、ふたりをめぐる物語。素性を隠して活動することで、自由を獲得した「F」。SNSで「F」のファンアカウントを立ち上げ、同好の士とつながる友香。匿名時代を生きるふたりの胸の内を、細やかなディテールとともに描き出している。

 そんな柿原さんと先輩作家による対談企画。第3弾の対談相手は、2020年に『晴れ、時々くらげを呼ぶ』(講談社)でデビューした鯨井あめさん。クリエイターの“匿名性”について、そしてお互いの著書について、じっくり語り合っていただいた。

(取材・文=野本由起 撮影=干川 修)

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「映像制作には縛りがある。自由な発想をそのまま形にできる小説に挑戦してみたかったんです」(柿原)

──柿原さんは『匿名』がご自身初の小説です。一方、鯨井さんはまだ20代前半ですが、執筆歴は13年だそうですね。

鯨井あめさん(以下、鯨井):小説に限らず、何かを作ることを長らく遊びとしてきました。小説を書き始めてから13、4年になります。

柿原朋哉さん(以下、柿原):すごい! 人生の半分以上、小説を書いているわけですよね?

鯨井:そうなりますね。小説って文字しかありませんが、逆にその縛りが文字に自由さという力を与えている気がして。ひと言では表わせないこと、形がないものを、文字しかない世界で構築していくのが好きなんです。

柿原:僕は、もともと映画を撮りたくて映像の学校に行き、映像制作会社を作りました。でも、ここ数年は映画を撮りたいという気持ちが以前ほどなくなってきて、これからどんなものを作ろうか悩んでいたんです。そんな時、僕は物語が好きなんだと思い至って。よく考えたら、映画を観る時も、演技や演出より脚本の面白さを重視していたんですよね。そこから小説に興味を持ち始めたんです。

 それに、鯨井さんのお話とは逆に、映像制作には縛りがあるんですよね。大人数が関わる仕事ですし、スケジュールや予算などにどうしても限界があります。自由に発想したいけど、「これはきっと無理だから考えないようにしよう」と、自分の脳がちっちゃくなっていくような感覚があって。なので、自由な発想をそのまま形にできる小説に挑戦してみたいと思うようになりました。

──今回、おふたりにはお互いの新刊を読んでいただきました。まずは柿原さんから、鯨井さんの新刊『きらめきを落としても』(講談社)の感想をお願いできますか?

きらめきを落としても
きらめきを落としても』(鯨井あめ/講談社)

柿原:不勉強ながら、今回初めて鯨井さんの作品を読ませていただきました。こういう機会で読ませてもらって、ほんとによかったなと思いました。めちゃくちゃ面白かったです!!

鯨井:ありがとうございます。

柿原:6編が収められた短編集ですが、タイトルや装丁からイメージしていた以上に、各話にズドンと重みがあるんですよね。しかも、キャラクターの性格が書き分けられていて、それぞれの設定も全然違う。ひとりの作家さんが書いたとは思えないほど、広がりがあるんです。読書で旅する楽しさも味わえましたし、「これを書いたのはどんな人だろう。どの主人公に雰囲気が近いんだろう」って、今日お話しできるのをとても楽しみにしていました。

──鯨井さんが、柿原さんの『匿名』をお読みになった感想は?

匿名
匿名』(柿原朋哉/講談社)

鯨井:たとえ匿名という仮面をつけたとしても、自分から新しい人間が生まれるわけではありませんよね。大事なのは、仮面の下がどういう人間なのか。そんなことを感じながら読みました。自分から逃げたいと思った時に、仮面は救いになることもある。仮面の持つ二面性が描かれているのが面白かったです。

柿原:嬉しいです! ありがとうございます。

鯨井:あと、先ほど映像作品がお好きだとおっしゃっていましたが、それが文章からも伝わってきました。描写の仕方、文章の展開などが、映像を観ている時に目に入ってくる情報量に近いですよね。「ここをアップにしたいんだな」「ここはちょっとカメラを止めて見せたいんだな」と文章から真摯に伝わってきましたし、とても読みやすかったです。

柿原:僕は逆に、鯨井さんの緻密な描写が勉強になりました。僕の場合、今まで映像でやってきた分、必要なものだけを見せる書き方をしがちなんですが、鯨井さんの描写は細やか。スローモーションに見せる書き方、疾走感がある書き方という書き分けも素晴らしいと思いました。作家としてやっていくなら、これを書けなきゃいけないんだなと身が引き締まりましたし、これからもこの作品を読み返すと思います。

鯨井:でも、映像的な描写は、みんなが近いものを思い浮かべやすいという武器にもなりますよね。私も『匿名』を読みながら、「ここにこのひと言を入れることで、こういう効果を出したいんだな」と勉強させていただきました。

──鯨井さんが面白いと感じたシーン、特に印象に残っているシーンはありますか?

鯨井:主人公の越智友香が、覆面アーティスト「F」の素性を知るためにいろいろ画策し始めますよね。私自身は作品そのものを好きになるタイプで、アーティストについては詮索しないので、その違いを楽しむことができました。あと、「F」は顔出しをしていないので電車に気軽に乗れるという描写がありますよね。私も顔出しをしていないので、「ちょっと気持ちがわかるな」と思いながら読みました(笑)。

 印象的なシーンは、ネタバレになるので詳しく言えませんがラストです。「F」のある選択が、とても心に残りました。

「仮面は救いにもなれば、良くない意味での逃避にもなる。その二面性が描かれています」(鯨井)

──今回の対談では、“匿名性”をテーマにお話を伺いたいと思っています。そもそも柿原さんは、YouTuber・ぶんけいとして活動してきたため、顔も名前も多くの方々に知られています。そんな柿原さんが、最初の小説で“匿名”をテーマに選んだのはなぜでしょう。

柿原:理由はふたつあります。ひとつは、覆面アーティストが最近増えているから。昔からニコニコ動画で「歌ってみた」を観ていたので、僕の中では当たり前の存在でしたが、それがメジャーになっていくのが面白い現象だなと思っていたんです。

 もうひとつは、僕が小説を書くと決めた時に、どの名前で出版するかすごく悩んだからです。本名の「柿原朋哉」か、今まで活動してきた「ぶんけい」か。あるいは、まったく違う名前なのか。「別に何でもいいよな」と思う自分もいれば、「いや、そんな簡単な問題じゃない」と思う自分もいて。でも、名義を一緒にするか分けるかという難しさ、怖さって、自分にしかわからないんですよ。読者からすれば、作品が面白ければそれでいいはず。名義なんて関係ないと思うんですよね。なのに、僕はなぜこんなにこだわるんだろうと思い、そこに向き合ってみたくなりました。

──鯨井さんはペンネームですよね。由来を教えていただけますか?

鯨井:好きなものをいっぱい並べました。それに、意味を重ねたり、うまく言葉を合わせたりするのが好きなので、この名前になりました。ただ、好きなものを並べすぎたせいで、このモチーフを小説に使いづらいんです。自分のことが大好きな人みたいで(笑)。

──本名ではなく、作家としての名前をつけたのはなぜですか?

鯨井:本名で本を出すと、そのままの自分になってしまう気がして……。私を知っている人が本を買い、「ああ、あの人が書いた本だからこんな感じなんだ」と思われるのが嫌だったんです。まっさらな状態で本を読んでほしいという思いが強いのかもしれません。

──顔出しをしないのも、同じような理由でしょうか。

鯨井:学校の講習会などで「ネットは危ない」と言われて育った世代なので、顔を出すことに抵抗があるんですよね。それに、私が前に出て、私という人間をコンテンツにする必要もないかなと思いました。あとは、気軽に電車に乗りたいという理由もありますね(笑)。

柿原:僕は顔出しをしていますが、やっぱり電車は苦手です(笑)。話しかけられるのは嫌ではないんですが、視線を感じるような気がするのが怖くて。こちらは知らないけれど、向こうは知っているという状況が怖いのかもしれません。だから、こないだ海外に行った時は、めっちゃラクでした(笑)。

鯨井:その気持ち、めちゃくちゃわかります。街なかで「あ、鯨井さんかな」と思われる可能性をほぼ0にしたいという気持ちがあるんですよね。「私」という人格が「鯨井あめ」の書いた小説を邪魔することを避けたいんです。「鯨井あめ」の作品は、「鯨井あめ」として責任を持って作りたい。自宅と仕事場の棲み分けのような感じなんでしょうね。

──先ほど柿原さんがおっしゃったように、近年は顔出しせずに活動する覆面アーティストも増えています。匿名で活動することに対して、おふたりはどんな考えをお持ちですか?

鯨井:私自身はあまり気にしていません。顔を出さずに活動する方がいるのが当たり前の時代を生きてきたので、「この人は顔を出さないんだな」と受け止めて終わりですね。

柿原:僕もそうです。ただ、覆面アーティストが増えてきたからこそ、その選択肢を選びやすくなったことはいいことだと思っています。「みんなは顔を出しているのに、あなただけ出さないの?」とはならない時代じゃないですか。

鯨井:顔を出さない理由も増えていますよね。「顔を出すのが怖い」「家族を守りたいから出さない」「作品そのものを見てほしいから出さない」など、いろいろな方がいます。どんな理由であれ、出したくないなら出さなくていい。それに、どんな名前や仮面を使うかより、最終的には何を作るかが大事ですしね。

柿原:いや、ほんとにそうだと思います。

──先ほど、鯨井さんは『匿名』について「仮面が人を救うこともある」とお話しされていました。もう少し詳しく聞かせていただけますか?

鯨井:仮面は、自分のことがすごく嫌いになったり、「今、人に見られたくない」と思ったりした時に、自分を助けてくれるものだと思うんです。海外には、仮面をつけるお祭りもありますよね。仮面をつけている間は、自分ではない誰かになるという感覚があるのだと思います。仮面をつければ、嫌いな自分から一瞬でも逃れられる、今向き合いたくないものから逃げることができる。それが救いになることもあれば、良くない意味での逃避にもなります。『匿名』では、その両面を描いていたのがいいなと思いました。

柿原:嬉しいです! 僕自身、YouTuber・ぶんけいとして活動する中で、顔を出すことの良さや怖さ、本名を使わない良さを感じてきました。顔を隠すことで得られるものもあれば、それによって失うものもある。そんな相反する感情を、自分にとって身近な“匿名”というテーマで描きたいと思いました。そこで、越智友香と「F」というふたりのキャラクターに、両方を行き来してもらったんです。

──これを書いたことで、柿原さんの中で匿名性に対する考え方は変わりましたか?

柿原:やっぱり複雑なんだなと思いました。どう向き合っていいかわからないなと思って書き始めましたが、書き切った今も割り切れるわけないな、と。でも、受け入れることはできました。「難しいよな。だから、ここで悩んでいても仕方ないな」という気持ちにはなれたかなと思います。

 以前は悩むことに時間をかけて、それがストレスにもなっていましたが、もう悩んでも仕方がない。鯨井さんがおっしゃったとおり、結局大事なのは良い作品になっているかどうか。悩むより、今優先すべきは作品だという気持ちになれたかなと思います。これから作品を書く時は、そういう悩みを取っ払って書ける気がしますね。

「天邪鬼な主人公を見て、自分にもそういう一面が……いや、全面的にそうかもしれないと思いました」(柿原)

──鯨井さんの『きらめきを落としても』についてもお話を聞かせてください。この短編集に収録された6編は、SFから恋愛ものまでバラエティに富んでいながら、不思議と統一感もあります。どのような流れで作っていったのでしょう。

鯨井:冒頭の「ブラックコーヒーを好きになるまで」を「小説現代」に寄稿し、その後「上映が始まる」を書き上げました。その時に、短編集にまとめませんかというお話をいただき、いろんな話を混ぜつつ1冊に作っていきました。

──柿原さんが、特にお好きな一編を挙げるなら?

柿原:うわぁ、どれにしようかな……。僕は「この短編が好き!」ってはっきりしているタイプなんですけど、この短編集は各作品のいいところが全部違うから、めっちゃ難しくて。「こんなに選べないことあるんだ」と思うくらい、どれも印象的なんですよね。

鯨井:「選べない」というのは、すごく嬉しい感想です。おかげさまで、どの短編もすごく好評なんです。おそらく全部違うものが書けているから、人によってそれぞれ何が刺さるかが違うのかなと思います。

柿原:強いてひとつに絞るなら、「ブラックコーヒーを好きになるまで」かなぁ。主人公は天邪鬼ですが、自分にもそういう一面がある……いや、全面的にそうかもしれないので(笑)。「鯨井さんは、こういうちょっとひねくれた感情にも向き合ってくれるんだ」と思って、すごく嬉しかったです。最初に読んだ時、「あ、鯨井さんもこういう人なのかな」と思ったくらい、人物像もすごくリアル。彼は彼で悩んでいるんだなというのが伝わってきましたし、憎み切れないんですよね。そのリアルさと、物語としての楽しさのバランスが素晴らしい作品でした。

鯨井:「ブラックコーヒーを好きになるまで」は、デビューが決まってすぐにご依頼いただいた短編なんです。デビュー作の『晴れ、時々くらげを呼ぶ』とは違う書き方を意識しました。

──主人公の人物像はどこから生まれてきたのでしょう。

鯨井:私が天邪鬼なのかもしれません(笑)。

柿原:やったー(笑)!

鯨井:誰しもちょっと天邪鬼な部分ってあるんじゃないかなと思って。この主人公は、比較的その部分が強く、斜に構えすぎて戻り方がわからないというイメージで書きました。

──鯨井さんが、特に印象に残っている短編は?

鯨井:答えになっていないかもしれませんが、全部です。どの短編もその1本が良いものになるようにと思って書いているので、それぞれに思い入れがありますし、思い入れの方向やこだわったポイントも各編で少しずつ違います。

柿原:じゃあ、僕も全部でお願いします(笑)。

「仮面の役割や力について考え、仮面の下を意識するきっかけにもなる一冊です」(鯨井)

柿原:まだ悩んでいる最中ですが、次は短編集を書いてみようかと思うんです。鯨井さんが『きらめきを落としても』を作る時は、どうやってコンセプトを決めたんですか?

鯨井:テーマを掲げるのはあまり得意ではないのですが、2作書いたあたりでなんとなく「ボーイ・ミーツ・ガール」という言葉が頭に浮かびました。ちょうどそのタイミングで、担当編集さんから「ボーイ・ミーツ・ガールでくくってはいかがですか」と言っていただいて。意見が合致したので、今回はそういうコンセプトにしました。

 ただ、縛りをつけることには、良い面と悪い面があると思います。あまりこだわりすぎると書くものが狭まってしまうので、書きながらコンセプトを見つけていくのもいいんじゃないかと思います。何も気にせずに書いて、ごちゃ混ぜになってもいいんじゃないでしょうか。

柿原:短編の収録順は、編集さんと一緒に考えたんですか?

鯨井:順番は自分で決めました。読者の気分やテンションを想像しながら、アーティストがアルバムの曲順を決めるような感じで考えていきましたね。

柿原:なるほど。この順番、めちゃくちゃいいですよね。コース料理のように、飽きさせない工夫があって。僕が短編を書く時は、短編集全体の構成も考えなきゃいけないなと思っていたので、お話を聞けてよかったです。

──鯨井さんから柿原さんに聞いてみたいことはありますか?

鯨井:柿原さんは、エッセイも執筆されていますよね。エッセイと小説で書き分けをされていますが、どちらも文章を読んだ時の印象が近いと感じたんです。自分の文章がどこから来たのか、根っこはどこにあるのか、思い当たることはありますか?

柿原:この文体がどこから来たかは、正直わかりません。ただ、僕は昔からおしゃべりだったんですよね。しかも、まとまらない話し方をしちゃうことが多くて。YouTubeではとりあえず何でも話して、必要なところだけ編集して使うのですが、その作業をするうちに少しだけ話す順番が昔に比べてマシになっていきました。そういう話し言葉が、文章に反映されているのかもしれません。エッセイも小説も、自分の脳内の話し言葉を文字起こししている感覚に近いですね。

鯨井:出力方法が話し言葉ってことですよね。だから、小説も一人称なんですね。

柿原:それもありますし、今の自分の技量だと一人称のほうが書きやすそうだったというのもあります。短編集に挑戦するとなったら、いろいろ書き分けてみたいですね。

──最後に、この記事を読んでいる方に向けて、お互いの著書を薦めていただけますか。

鯨井:柿原さんは、これまで匿名性が顕著なネットの世界で活躍されていました。匿名性という仮面をつけて活動していた方が、今回本名で小説を書かれたということも『匿名』のスパイスになっていると思います。また、先ほど仮面の二面性について話しましたが、発信する側の匿名性だけでなく、受信する側の匿名性という非常に身近なところも書かれています。あらためて匿名性というものがどういう役割や力を持っているのかを考えさせられますし、仮面の下を意識するきっかけにもなる一冊だと思います。

柿原:『きらめきを落としても』をお薦めしたい人は、2タイプいます。ひとつは、今読みたい本がない人。面白い本を読みたいけれど、今読みたい作品が見つからない人が読めば、絶対刺さるものに出会えます。そしてその先、きっと鯨井さんの作品を好きになると思います。

 もうひとつは、これまで本を読んだことがなくて、自分がどんな作品が好きなのか知らない人。先ほどと近いんですが、収録された6編はどれもテイストが違うので、「あ、自分ってこういう小説が好きだったんだ」と、自分の“好き”を認識するきっかけになると思います。もちろん、鯨井さんの作品がすでにお好きな方にも読んでほしいです!

(柿原さん)ヘアメイク=入江美雪希 スタイリング=金野春奈 衣装協力:ジャケット8万円、パンツ3万6000円(Ground Y/ヨウジヤマモト プレスルーム TEL:03-5463-1500)、その他スタイリスト私物(すべて税別)

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