「障がいと表記すべし」「ブラック企業はレイシズム」!? 自分らしく生きる世界の実現が「地獄」につながるワケを、橘玲氏に聞いてみた

社会

公開日:2023/8/31

世界はなぜ地獄になるのか
世界はなぜ地獄になるのか』(橘玲/小学館)

 自分らしさがなによりも尊重されるSNS全盛の現代。この日本でも、平等で公平な社会を目指す「リベラル」に期待する声は多い。しかし、反動もある。行き過ぎた「社会正義(ソーシャル・ジャスティス)」、不祥事をきっかけに炎上によって社会的地位を引きずり下ろす「キャンセルカルチャー」など、懸念するべき課題があるのも事実だ。

 作家・橘玲さんの新著『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館)は、そうした世相を憂う1冊である。「天国(ユートピア)」と「地獄(ディストピア)」が一体化した現代の「ユーディストピア」をいかにして生き延びるべきか。著者の橘さんに、お話を伺った。

(取材・文 カネコシュウヘイ)

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■「障害者」は漢字表記か平仮名表記か。海外に後れを取る「窮屈」な日本社会の現状

――本書では、リベラルを「自分らしく生きたい」と願う「価値観」だと定義しています。一見、理想的に思えますが、その背景では様々な問題も浮かび上がると分かりました。「キャンセルカルチャー」などを題材に執筆しようと思った経緯について教えてください?

橘玲(以下、橘):私だけでなく、すべての文筆業者が言葉の使い方に説明責任を求められる時代になったと感じたのがきっかけです。新著で取り上げた「障害」の表記についての議論は、その典型です。法律上は「障害者」でも、ポリティカル・コレクトネス(政治的、社会的に求められる正しさ)の基準では「障がい者」を使うべきだとされる。しかしその一方で、「自分らしく生きることを社会によって“障害”されているのだから、『障害者』の表記が適切だ」と考える当事者もいます。これは一例ですが、アイデンティティにかかわることは、つねに「なぜ、その言葉を使うのか」を問われる窮屈さがあり、「社会正義」に対する考えを自分になりにまとめてみたいと思ったのが執筆の動機です。

――日本での事例と同様に、アメリカでも黒人の表記に関する混乱があるそうですね。

:黒人を表す場合、英語では「Black」と頭文字を大文字にしますが、白人を表す際は「white」と小文字になる。白人至上主義の団体が「White」を使っているからで、断りなく「White」と書くと「レイシスト」のレッテルを貼られかねない風潮があるそうです。日本では近年、悪しき職場の実態を表す「ブラック企業」や「ブラックバイト」の言葉が浸透しましたが、英語での「Black Enterprise(ブラック企業)」は「黒人が経営する黒人のための事業体」の意味で、日本在住の黒人から「ブラック=悪とするのはレイシズム(人種主義)だ」と批判されました。「ブラック企業大賞」を運営していた社会活動家らが代替の用語を提案しないため、居心地の悪いままこの言葉が使われているのが現状です。

――新著では、海外の事例も多数取り上げていますよね。日本と海外の差を、どうお考えですか?

:日本でも「ツイッター(現:X)が地獄」と言われますが、ユーザーの多い英語圏のほうがはるかに「地獄化」しています。日本語話者はおよそ1億人で、そのほとんどが日本で暮らしています。それに対して英語人口は15億といわれ、そのうえ英語話者は世界中に分散している。歴史や文化、宗教や価値観の異なる多様な英語ネイティブがいるのですから、投稿する側からすれば、どこに炎上の火種があるのかまったくわかない。そのためフォロワー数1億を超えるようなSNSのセレブリティは、最近は「新曲が出ます」「ツアーが始まります」といった告知しかしなくなった。SNSは言論を民主化すると期待されましたが、逆に「言論の自由がなくなる」という矛盾を抱えてしまったのです。それに比べれば、日本の現状は欧米から1~1.5周くらい遅れていると思います。

■個人が評価される利点がある一方、何者でもなくなるリスクもあるリベラル社会

――新著では、SNSについて「『評価』を『数字』に変えるイノベーション」だと述べていました。ただ、物事には両面あると思いますが、SNSの長所と短所をどうお考えですか?

:人種や出自、性別、性的指向のような属性ではなく、個人として評価するのがリベラルな社会の大原則です。ところがこれまでは、個人の評判を客観的に知ることができなかったので、仕事を発注するときは会社の看板に頼るしかなかった。「大企業ならスタッフのレベルも高いだろうし、トラブルがあっても責任を取れるはずだ」というわけです。ところがいまでは、SNSで個人の評判を確認して、優秀なフリーランスにダイレクトに仕事が発注されるようになってきた。クリエイティブな業界ほどこうした傾向が顕著で、もはや会社に所属する必要がなくなったのはポジティブな側面でしょう。今後はフリーのクリエイターが集まってプロジェクト単位で作品をつくり、バックオフィス化した会社がそのコンテンツを管理・販売していくという二極化が起こると考えています。

 ただ、そうなってくると、「ネット上に評判がないのは社会的に存在しないのと同じ」ということになりかねない。実際、出版業界では、「フォロワーが何人いるか?」で新人の本を出すかどうか決めてますよね。学校でも、かつてはクラスでモテる生徒がスクールカースト上位だったのに、いまではインスタのフォロワー数やTikTokの再生回数の多い生徒がカーストの頂点にいるそうです。しかしそうなると、フォロワーやいいね!を増やそうと、度を超した投稿で炎上する事態が起きます。これはコインの表と裏で、SNSのネガティブな部分をなくして、ポジティブな効果だけを享受することはできないし、この先も付き合っていかざるをえないと思います。

――SNSの影響を受けて日本での「Z世代」にあたる、アメリカで「iGen」と称される若い世代で「うつ」が増加しているという話題も取り上げていました。

:専門家により意見は様々ですが、若い女性層を中心に「自殺」や「自傷行為」が増えているとするデータはあります。親世代が子どものSNS利用に過敏になるのは当然でしょう。その一方で、SNSで多様な価値観に触れることで若者たちが「リベラル化」しているという主張もあります。実際日本でも、若い世代の方が夫婦別姓や同性婚への支持率が高いという顕著な傾向があります。

 ただ私は、「自分らしく生きたい」という価値観が、政治的な「リベラル」に結びつくかは懐疑的です。若者が多様性を当然のものとして受け入れるのは、「私が自由に生きるなら、あなたにもそうする権利がある」と考えているからで、この「自由の相互性」がリベラリズムの基礎ではあるのですが、それは「私は私、あなたはあなた」「私には関係ないことだから、夫婦別姓でも同性婚でもどうぞご勝手に」ということです。これは一般には新自由主義(ネオリベ)と呼ばれる態度で、若者は自民党や維新を「改革政党」、立憲や共産党を「保守政党」と考えているという調査もあります。アメリカでは、Z世代は民主党を支持していますが、「iGen」の高校生はトランプ支持の方が多いという結果が出て衝撃を与えました。

■欧米を追いかける日本では個人が「環境」に適応するしかない

――新著でもたびたび使われる「ポリティカル・コレクトネス」、いわゆる「ポリコレ」のフレーズも昨今のSNSではよく見かけます。

:日本では社会正義を求める運動を「ポリコレ」と揶揄しますが、英語圏では「SJW(Social Justice Warrior)」や「Woke」が使われます。SJWは「社会正義の戦士」、Wokeは「(社会問題に)意識高い系」のことです。ポリコレではジェンダーのちがいはあってはならないとされますから、アメリカのリベラルな大学では「he(彼)」や「she(彼女)」の三人称が使いづらくなり、三人称複数の「they」を単数として使うよう指導されています。これに対して、北朝鮮から逃れてコロンビア大学に留学した女性が、「北朝鮮は本当に狂っていた。でもこのような狂い方はなかった」と述べて物議をかもした事例もありました。

 太陽が地球の周りを回っているのか、地球が太陽の周りを回っているのかの論争は、科学的に決着をつけることができます。それに対して、「自分らしさ(アイデンティティ)の衝突」は、どちらが善で、どちらが悪かを客観的に決めることができない。誰もが自分なりの「正義」を振りかざすようになれば、SNSが「地獄」になるのは当然でしょう。

――昨今では「多様性」のフレーズも混乱をきたす要因になっているかと思います。

:マイノリティも自分らしく生きられる社会は素晴らしいですが、その一方で、多様化が進むほど社会は複雑になっていく。リベラルの理想は多種多様なアイデンティティが調和することですが、そのような社会が実現する保証はどこにもない。現実に起きているのは、多様なアイデンティティの衝突と混乱です。リベラルは「寛容であれ」と説きますが、「他者に対して不寛容な者にも寛容になれるのか」という問いには答えません。

――最後、日本の将来像について、橘さんの見解を伺えればと思います。

:日本は欧米から1周から1.5周遅れていると述べましたが、逆にいえば、アメリカの現状は日本の未来を知る水晶玉のようなものです。すくなくとも、これからどのような事態が起きるかはあらかじめ知ることができる。だとしたら、そんな世界でどのように生き延びるかを一人ひとりが考えるしかない。「そんなのなんの解決にもなっていないじゃないか」という批判は承知していますが、この状況にブレークスルーがあるとすれば、「ぬるい日本」ではなく、はるかに地獄化で先行する欧米(おそらくはシリコンバレー)から生まれるだろうと思います。

『世界はなぜ地獄になるのか』のレビューはこちら


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