声優・夏川椎菜×小説家・中山七里が語った、声優として小説家として生き残るために必要なもの!

文芸・カルチャー

2019/10/24

 2019年2月に発表した自身の写真集『夏川椎菜1st写真集 ぬけがら』をモチーフに切なくて爽やかな青春小説『ぬけがら』を書き下ろした声優の夏川椎菜さん。

『さよならドビュッシー』で「第8回このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、これまでに数々のミステリ作品を発表。 “どんでん返しの帝王”という異名をもつ作家・中山七里氏。

 そんなお二人の初顔合わせとなる対談が実現。お互いの作品の印象や「創作について」、「才能とは何か」にまで話題はおよんだ。最後に夏川さんの意外な一面も明らかに!?

中山七里(以下、中山) 僕は『ぬけがら』を読んで、非常に切ない話だと思いました。ある女の子と出会った人たちの一瞬をきりとった連作短編集の形をとっていますが、全体を通して語られているのは才能のこと。デザイナーをめざしてプロの世界に入ったはいいが、才能の限界を感じて脱落してしまった女の子を通じて、語り手はそれぞれ自分自身を見るわけです。小説家も声優も同じですが、資格のいらない商売で生きていくことの厳しさを、よくご存じの方が書いていらっしゃる作品だな、というのを端々から感じました。

夏川椎菜(以下、夏川) ありがとうございます。まさにそういうところを書きたかったので、読みとっていただけてとても嬉しいです。

中山 しかも、登場する誰もに具体的な名前がついていないでしょう? これがまた効果的でね。名前があれば自分とはちがう人物として客観視できるのに、一人称で語られるがゆえに、読んでいるとまるで自分のことを語られているような感覚に陥るんですよ。いやあ、ヒリヒリしました。

夏川 名前をつけなかったのは、今回の小説が先に刊行された写真集をもとに生まれたから、というのもあって。写真集に映し出されているのは私なので、当然、この小説を読んだ方も「私」を読みとろうとしますよね。私自身にそのつもりはなくても、主人公とある程度は同一視されてしまうのは避けられない。だけどこの女の子は私ではないし、かといって、夏川椎菜ではない別の誰かの名前をつけるのも何かが違う……。と、決めたことだったのですが、おっしゃっていただいたように、自分に置き換えて読んで泣きましたという感想もいただけたので、よかったなあと思います。

中山 写真集とペアで読むとまた印象が違うでしょうね。僕は小説だけを先に読んだので、純粋に文章だけのイメージでお話していますが、とても突き刺さりましたよ。というのもね、こういう人の憧れを集める産業というのは、才能がないとやっていけないけど、才能だけあってもやっていけないじゃないですか。でも、才能というのは目に見えないし、確かなものが何もない。

夏川 そうですね。

中山 みんな、特別な誰かになりたくてしょうがないんだけれど、それを成しえるのは一掴みどころか一つまみの存在。そのことに踏み込んだドロドロの物語にするのではなく、かといって客観視しすぎて嘘くさくなるのでもなく、塩梅を探りながら書かれているところに逆に痛切なものを感じました。女の子の視点がプロローグとエピローグしかないのもよかったですが、ここに夏川さんの怯えみたいなものも見えた気がしたんです。才能について、つまりはご自身が体感してきたことをド直球に書きすぎて、読者を傷つけることがないように、という。

夏川 そうですね。読む人を傷つけたくない、という気持ちもありましたが、なにより自分自身をあまり痛めつけたくなかったんです(笑)。最初にプロットを書いたとき、主人公であるはずの女の子の感情が見えない、と言われて書き足す作業がいちばん難しかったです。“彼女は私ではない”と言いながらも、自分の心をさらけ出していく作業には、やっぱりなっていくので。それに、この小説を読んでくれるのは少なからず私を応援してくれている方々だから、ふだんの印象とはおそらく違う暗さをともなう部分を、どこまで見せていいのかもわからなかった。書き終わった今は、私の言葉だからこそ伝わるものがあったのかもしれない、だったらもうちょっと書いてもよかったかな、と思っています。

中山 その、悩みながら書いている感じが良かったんだと思いますよ。僕はデビューが48歳で、いい大人だったから、誰に何を思われても、どんな自分を見られても、どうってことないという開き直りが最初からありました(笑)。『ぬけがら』には僕が40年前に通りすぎてしまった、けれど確実に体感していたものが詰まっていて、読みながら記憶が蘇ってきましたし、現在をかんがみて身につまされるものがありました。

夏川 私が声優業界に入ったのは14歳のときで、社会を知らなければ、人生について考えたこともなくて、ただ声優になりたくてオーディションを受けたら受かった、やった!という気軽な安堵しかなかったんです。自分の歩む道を決定づけてしまったという自覚もなく、無邪気に夢が叶ったことを喜んでいた。だからその後、現場で壁にぶつかるたびに、才能とは何か、自分には何ができるのかを考えさせられるようになりました。

中山 先ほどの「才能があるだけでもやっていけない」という話に繋がりますが、デビューする才能と続けていく才能はまったく別ものなんですよね。能力があればやっていけるなんて、大嘘ですよ。小説の世界でも、驚愕するほどおもしろい小説を書く人でさえ、いつのまにかいなくなってしまう。

夏川 声優の世界も同じです。うまい人が売れるとは限りません。

中山 それでいうと、僕は自分自身に書く才能を感じたことは一度もない。書き終えた作品は「もっとこうすればよかった」ということの繰り返しで、恥を忍んで未完成品を出し続けている。声優さんも同じでしょうけど、完璧なものができた! と思えることなんて1年に1回、あるかどうか。でも、それが商売なんだと思います。頭のなかにあるベストをめざして日々やっていくしかない。それと僕、才能以外には恵まれていると思うんですよ。たとえば、担当さんが素晴らしい人だったとか。

夏川 ああ、それも同じです。私も自分に声優の才能があるなんて一度も思ったことはないですが、人に恵まれる才能はあったなあ、と。まわりで私を支えてくれる人たちにそれぞれ何かしらの才能があって、それを分け与えていただくことで、なんとか活動し続けている気がしています。

中山 仕事というのは、人の縁でほとんどもってまわっている。おそろしいことに、どんなに才能があっても、縁のない人は何をやってもだめなんですよ。ただ、じゃあ最初からすべてが運命づけられているかというとそうでもなくて、成功する人は縁を繋ぐトレーニングをしているんです。自覚的にせよ無自覚にせよ、目の前にある縁を逃さないように努力している。夏川さんがおっしゃったように、人の縁で自分の才能を大きくしている人もたくさんいますよ。純粋に、もっている能力の大小では計れない。

夏川 あとは、自己プロデュースも必要なのかなと思います。今って、誰の力を借りなくても自分だけで発信する場所がいくらでもあるし、自分を生かすも殺すも自分次第だな、と。やりたいことがあったらどんどん口にしていかないと、動いてくれる人も動いてくれない。私は最近、こうして小説を書いたり作詞をしたりする機会も多いので、本業からそれていると感じる人もいると思いますが、自己表現という畑を耕していることには変わりなくて、ひとつひとつ作物を育てながら私という農園が大きくなっていけばいいと思っているんです。

中山 おっしゃる通りだと思います。この人にはこれしかできない、と思われたらアウト。だから私は、デビューして最初の1年で4作ほど、まったく違う毛色のものを書いて、違う出版社から出してもらいました。残酷な表現もできますし、美しい音楽表現を書くこともできます。切ない描写だってできますよ、と自分の引き出しを示していったんです。結果、どの作品も初速がよかったから、今も何とか生き残っているなあと感じます。ただ僕は、SNSはやりません。火薬庫のなかで煙草を吸うようなものだから(笑)。

夏川 (笑)。声優業界は今、作品数がどっと増えたおかげでデビューじたいは昔より難しくなくて、応援しようとしてくれる方もたくさんいる。でも、そのあとが続かない人たちが多くて、そこで必要となってくるのが才能以外の部分なのかなと思います。

中山 小説も同じですよ。しかも出版不況が続くから、新人にかけられる金もなければ、人材も不足している。とすれば、自力で補助輪なしで走り出せるようにならないと、生き残っていけない。せちがらいですねえ。しかもその過程で、才能を否定されるような思いをすることもあるわけじゃないですか。何百枚も書いたものを一瞬でボツにされたり、売れずに一刀両断されてしまったり。作品は自分自身の一部の一部の一部でしかないのに、才能と一緒に全人格を否定されたような気持ちになる。

夏川 アニメは、1クールに50本以上の作品があり、それぞれにオーディションがあるので、月に何度も何度も不合格の知らせを受けるんですよ。お前はいらない、って言われ続けることに慣れてしまいそうになる瞬間があって、それがいちばん怖いです。

中山 『ぬけがら』は「お前はいらない」と言われたあとに、再び自分にとって大切なものを取り戻していく話。こういうことは現実に死ぬほどあると思いますが、けっきょく、いらないと言われたあとでどんな行動をとるかで、その人の人生は決まっていくのだと思います。そういう意味でも、美しく瑞々しく描かれる一方、残酷性を孕んだ物語だと思いました。

夏川 中山さんの『ワルツを踊ろう』の主人公・了衛は、「いらない」と言われたあとに起きた出来事がつらすぎますよね……。リストラされて、お父さんが亡くなって、田舎で第二の人生を送ろうとしたはいいけど、6戸しかない村での人間関係が全然うまくいかなくて。私、途中まで、これは町おこし小説だと思っていたんです。最初は村の閉鎖的なルールになじめなかったけど、無農薬野菜を売ることで産業が発展して、村全体で豊かになり、了衛の存在意義も見いだされ、最後はみんなでワルツを踊って大団円……みたいな。

中山 真逆のえげつなさでしたでしょう(笑)。

夏川 真逆でした(笑)。了衛の奮闘ぶりに感情移入して、応援する気持ちで読んでいたから、後半どんどん転落していく姿が本当におそろしくて。

中山 最初のオーダーが「普通の人がおかしくなっていく話を書いてほしい」でしたからね。普通の人がどうしたらおかしくなっていくのか、と考えると、やはり大事なものを少しずつ削られていくことだと思ったんです。自尊心、お金、それから大事な存在。これを一つずつ削られていくと、人間はまっとうではいられないんじゃないか、と。

夏川 読んでいると、加害者と被害者が逆転していく感じを味わうというか、なにをもって悪とするのかもわからなくなってくる。怖いな、って思いました。おかしくなっていく過程を「わかる」って思ってしまう自分も。また、流れ続ける〈美しく青きドナウ〉も怖くって。私の祖父も山奥に住んでいて、年に2回遊びに行くんですけど、田舎=のどかであたたかいというのは思い込みでしかないんだなと思い知らされましたし、いろんな物の見方がひっくりかえされる小説でした。

中山 単行本が刊行された2年前は、田舎に行って町おこしとか、限界集落の復興とか、そういうのがフィクションでもノンフィクションでもブームでね。でも小説にも書きましたが、成功例なんて千に一つあるかないか。そもそも田舎がのどかでフレンドリーというのも幻想なんですよ。人間より獣の数が多いところに育つと、そんな幻想は抱いていられない(笑)。都会と違って、つき合わすのは同じ顔ばかりだし、気晴らしとなるような施設がないから、浮気とか借金とか他人のプライバシーが娯楽となる。田舎の人は玄関に鍵をかけない、っていうのを都会の人は「悪い人がいない」と肯定的にとらえますけど、とんでもない。つまり、家主がいなくても隣人が勝手に上がり込んでお茶を飲んでいるってことですよ。スリラーでしかありません。

夏川 それは確かにいやかも……。

中山 プライバシーがないということは、感情を発散させられる場所もないということで、いろんなものが鬱屈していく。とくに山に囲まれた場所はだめですよ。逃げ場がない。そういう場所に都会の知識やシステムをもちこんだって、机上の空論。そもそも導入することさえできません。……というのをですね、僕は皮肉屋なので、喧伝された成功例を横目に「嘘つけ!」と思いながら書いたわけです(笑)。

夏川 『さよならドビュッシー』のシリーズも読ませていただいたので、本当に同じ方の書いた小説なのかと驚きました。でもそれも、さっきおっしゃっていた、引き出しのひとつなんですね。

中山 そうですね。ただ、こうしたものは表裏一体で、結局大切なものは守らなきゃいけないってことなんですよ。『ぬけがら』の女の子は失った自尊心をもう一度とりもどせたけれど、そうでなかったら……。僕は『ぬけがら』を読んでいて、夏川さんはきっと美しいものが大好きだけど、そうでないもの、たとえば残虐な感情にも同等の愛情を注げる人だろうと思いました。真逆ではあるけど、その2つは切り離されたものではなく、地続きですから。『ぬけがら』と『ワルツを踊ろう』を隔てるものも、きっと薄皮一枚だろうと思います。

夏川 実は私、残虐な事件とか歴史とかに興味があって調べたりしていて。もちろん自分がそうしたいとか共感するとかではなく、「どうしてこんなことが起きてしまったんだろう」と考えさせられる闇の部分に惹かれるというか。

中山 であればきっと、真逆の作風のものも書けると思いますよ。ご自身が興味を持たれたことは、いま必要なくても必ず夏川さんの血肉となるはずですから、インプットし続けていくといいと思います。直接、小説を書くことに繋がらなかったとしても、何か仕事の役に立つ日がきっと来ますから。今回の小説を読んで、瞬間をきりとるセンスがすばらしいと思いましたし、それは努力で身につくものではないので、今後の作品も非常に楽しみにしております。

夏川 ありがとうございます。たいへん勉強になりました……! また読んでいただけるよう、頑張りたいと思います。

取材・文=立花もも 撮影=内海裕之

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