いま注目の女子ボクシング。作家・角田光代も敬愛する、日本人初の世界5階級制覇王者・藤岡奈穂子が語る「46歳の戦い方」

スポーツ・科学

更新日:2022/3/16

藤岡奈穂子

プロボクサー
藤岡奈穂子

『ダ・ヴィンチ』本誌4月号「角田光代」特集に登場した、プロボクサーでWBA女子世界フライ級チャンピオンの藤岡奈穂子さん。20年以上ボクシングジムに通い続けている角田さんとは、3~4年前からの「飲み友達」。藤岡さんが所属するジムを訪れた角田さんのミット打ちの相手をした際には「アグレッシブで自分からミットに向かってきた」こと、お酒の席での角田さんの様子など、たくさんのエピソードを語ってくれた。

 取材後にはジムで、淡々とした、だが殺気を感じさせるミット打ちの風景も見せてくれた藤岡さん。本記事では、そんなプロボクサーとしての一面にスポットを当て、ボクシングという競技の、そして藤岡さんの魅力を紹介する。

『空の拳』には角田さん自身のボクシング観を感じる

藤岡奈穂子
2017年3月13日に後楽園ホールで行われたWBA女子世界フライ級王座決定戦。この試合に勝利して、男女を通じて日本選手初の世界4階級制覇を達成。同じ年の12月1日には、女子ライトフライ級王座決定戦にも勝利して世界5階級制覇も達成する。

――藤岡さんは角田さんのボクシング小説『空の拳』を読んで、すごくリアルだと感じられたそうですね。

藤岡 はい。角田さんご自身がボクシングジムに通われて、感じたことがたくさん入っているんだろうなと思いました。沢木耕太郎さんの本(『一瞬の夏』)とはまた違うボクシング観が感じられるというか。男性目線と女性目線というのもあるかもしれませんが、角田さん自身のボクシング観を感じました。角田さんとお話しした時は、短い文章でボクシングを表現するのが本当に難しいとおっしゃっていましたね。

――登場する選手とご自身を重ねて読んだりされましたか?

藤岡 割と俯瞰で読んでいました。「いるよね、こういう選手」「わかるな」というような。ただ、いろいろなタイプのボクシングジムが出てくるので「あのジムをモデルにしてるんじゃないかな?」とちょっと探りながら読んじゃいました(笑)。

――ボクシング雑誌の編集者である主人公が最初にボクシングジムを訪ねた時、扉を「開けるのがためらわれる」ような、独特な雰囲気を感じていましたね。

藤岡 入りづらいだろうなと思います(笑)。多分(主人公も)編集者の仕事じゃなかったら一生入らない所ですよね。入りにくいというか、怖いというか、そういう世界なんだろうなとは思っています。

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――ボクサーの方にとっては逆に居心地のいい空間なのでしょうか。

藤岡 仕事場です。自分はプロなんで……後楽園ホールも仕事場ですしね。

――作中にも試合会場として後楽園ホールが何度も登場しますね。「リングは浮かび上がっているようだ。しかもみずから発光しながら」という表現もありました。

藤岡 選手たちがスポットライトなり歓声なりを浴びるための場所ですからね。ライトが本当に熱くて。だからリングは温かいんですよ。スリップして倒れたりするとあったかいなあと思います。

――作中には華やかなボクシングをする立花、品のあるボクシングの坂本など様々なタイプのボクサーが出てきます。藤岡さんはご自身をどんなタイプのボクサーだと思われますか?

藤岡 自分のことってわからないですよね。自分は本当に真剣にやっているだけなので。こう見せたいなというのはありますけど、実際そうなっているかどうかは周りの人に聞いてみないとわからないです。

――見せたいのはどういうご自分ですか?

藤岡 すごいなとか「対戦者と差がすごくあるな」とか思われたいというのはあります(笑)。あとは観ている人がエキサイトするような、会場全体が割れるぐらい盛り上げられる試合をしたいという気持ちが強いです。プロの試合は、ただ勝てばいいというものではなくてエンターテインメントでもあるので。戦っていると会場の雰囲気ってすごくわかるんです。声も聞こえますし、どのぐらい盛り上がっているのかを肌で感じながら試合をするので。アマチュアの時とは全然、意識が違いますね。

――アマチュアで始められた時は本当に女子ボクシングの競技人口も少ない、黎明期のような頃ですよね。

藤岡 そうですね。1999年とか2000年くらいです。

――もともとソフトボールをやっていらしたそうですが、ボクシングを始めてどう感じられましたか?

藤岡 ボクシングって、やることがすごく地味なんです。試合ではスポットライトが当たって華やかですが、毎日の練習では鏡に向かってずっとジャブを打っている。しかも、様にならないうちはかっこ悪い自分の姿を見なきゃいけないわけで……それはちょっとしんどいなって思いました(笑)。でも意外にコツコツやる、地味な練習が嫌いじゃなかったんですよね。

――作中に「勝ちにいくということは、こんなにも静かなことなんだな」「静かで単調なことなんだな」と主人公が思うシーンがありました。

藤岡 淡々と、という感じですね。何か特別なことをするとかでは全然なくて、当たり前のことを当たり前にやる、みたいな。同じことを粘り強くやれる人、繰り返すのが好きな人はボクシングに向いていると思います。それか「絶対こうなるんだ」っていう何か強い意志を持っている人。

――角田さんは過去のインタビューで失恋がきっかけだとおっしゃっていましたね。失恋に耐えられるような「強い心には強い肉体が必要だな、と身体を鍛えるためにジムを探した」ら、たまたま近くにあったのがボクシングのジムだったと。

藤岡 はい。その動機もいいなあと思いました(笑)。

――角田さんが藤岡選手の試合を観に来られたこともあったそうですね。

藤岡 はい。2019年のタイトルマッチを観にきてくださいました。試合内容については深くお話ししていないんです。多分、女子の試合をほとんど観たことがなかったと思うんですよ。まだまだボクシングは男性の競技なので。角田さんは男子の試合をたくさん観ているので、女子の試合をどう観たのか、今度聞いてみたいです。

46歳の今のほうが、若い頃より賢く戦える

藤岡奈穂子
アメリカ・ロサンゼルスで行われたWBA女子世界フライ級の防衛戦(1)2021年7月9日に、この試合に勝利して、3度目の防衛に成功。(c)Al Applerose

――先ほどおっしゃっていた当たり前のことを当たり前に、淡々とやるというのは、世界チャンピオンになってからも変わらないですか。

藤岡 変わらないです。むしろシンプルになってくるというか、余計なものを削いで基本に戻るようになります。

――昨年、45歳の時に撮られた動画で「若い時より勢いがあるんじゃないか。総合的に言うとむしろ強くなっている」とおっしゃっていましたが、昨年7月のアメリカでのタイトルマッチ(3度目の防衛戦)の映像を拝見して、まさにそう感じました。

藤岡 ありがとうございます。もちろん若い時のほうが勢いもあるし、パンチや足の運びにも速さやキレがあったりはするので、若い選手を見て「いいなあ」と思うこともあるんです。でも若い時はその分、隙が多いともいえるんですよ。勢いに任せて打ってしまうので、もし空振りしたらその後どうするの?みたいなイチかバチか的な戦いになるんですよね。今は、そういう穴が少なくなってきて、行ったら行きっ放しじゃなくて、止まりたかったら止まる、と自分の体をコントロールできるようになってきました。今のほうが賢く戦えるんじゃないかなと思います。

藤岡奈穂子
アメリカ・ロサンゼルスで行われたWBA女子世界フライ級の防衛戦(2)この試合は、アメリカでのデビュー戦であり初勝利。(c)Al Applerose

――試合を拝見していてもまったく不安要素を感じませんでしたが、ご自分でもまだまだやれるという確信がおありなのですね。

藤岡 まだ伸びしろあるし、体力も気力もあるんじゃないかなと。体力より気力のほうが大事ですね、やっぱり。気力がないと体を動かせない。20代の頃のような数をこなす練習はもうできないですが、その分質を上げるというか。やっぱり頭を使うことが大事ですね。冷静に相手との距離を見て、自分の立ち位置を考えたりする。いくら速くても、強いパンチが打てても、当たらないと意味がない。パンチは、遅くても当たればいいんです。相手に「これが来るだろう」と読ませないパンチが一番いい。それが出せる選手は強いです。

――アメリカの試合では、相手選手のパンチも当たっていないわけではないのに、藤岡選手にはまったく効いていないように見えました。

藤岡 そう見せることができるようになります(笑)。そうすると相手は精神的に追い詰められますよね。こんなに渾身の力で打って、しかも当たっているのに「なんでこいつ平気な顔してるんだろう? もしかしたら自分のパンチが効かないのかな?」と。そうすると、打ったのに自分がやられたような感覚になるというか、これ以上どうしたらいいのかわからなくなる。手詰まりにさせたほうが勝ちです。あと、うまい選手は試合中に休めるんです。

――休める?

藤岡 はい。相手にわからないように休む。例えばクリンチの時に、相手に体を預けながら休んだりとか。キャリアが同じくらいの選手だと「休んでるな」と気づかれるんですが、若い選手だと、こちらが休んでいる間も無駄に打ってくる……というか打たせることができる。自分は休めて、相手は休めない状態にするんです。体力も使うけど、頭も結構使う競技ですね。

――しかも、それが瞬時にできないといけないわけですよね。それまでいかに頭を使って練習をしてきたかにかかってくる。

藤岡 そうですね。試合になったら、体が覚えているものしか出ない。しかも練習してきたことがすべて出るわけではないですからね。そのための反復練習です。

――今のようなお話をうかがってから、実際に現場で試合を観ると本当に楽しそうです。

藤岡 生で見ると全然違います。最初は怖がって「殴り合いなんて」と言っていた女性の方も、実際に試合を見ると「やれー!」と叫んだりします(笑)。

ボクシングを通して、世の中の人たちに貢献したい。

藤岡奈穂子
アメリカ・ロサンゼルスで行われたWBA女子世界フライ級の防衛戦(3)この試合で、プロボクシングの2021年度年間表彰の女子年間最高試合賞も受賞、あわせて、女子最優秀選手賞も受賞した。(c)Al Applerose

――いかに精神力が大事かということがわかりました。

藤岡 そうですね。本当に気持ちの面での鍛錬が重要なんだろうなと。よく、「長く続けるうえで、モチベーションはどうされていますか?」と聞かれるんですが、今は何もないんですよ。モチベーションに左右されるのが嫌なので。最初は「自分のため」とか「女子ボクシングを盛り上げるため」とか「自分に負けて辞めていった選手のため」とか何かあったんですが、今はただただ、自分の伸びしろだけを見ている。目の前にある課題をつぶしていくというか、クリアしていくことだけに集中できるのがいいんです。コロナで2年くらい、思うように試合ができなくてもずっと練習を続けられた理由はそれだと思います。違うところにモチベーションを探していたら、続いていなかったんじゃないかな。ベクトルを自分に向けることが大事なのかなと。

――課題がなくなることはないんですね。

藤岡 まだもっと強くなれる、という課題がずっとありますね。もしそれをクリアできたらやめてもいいかなと思う。「完成形」に近づきたいんですよ。自分で見ても、「おおっ」と思えるようになりたい。まだどこかで「なんか違うんだよな」というところがあるので。

――完成形が見えていて、それに近づけていく作業なんですね。

藤岡 はい。すべて逆算ですね。目標設定をして、そこまでの過程を考えていく。目標がないと続けられない性格なんです。目標を達成する前に、新しい目標を立てておくと、最初の目標は当たり前に達成するべき通過点になる。失速しないんですよね。3階級制覇した時に5階級制覇の目標を立てたので4階級は通過点になった。5階級制覇の前に「アメリカで試合をする」ことを目標にしたので5階級は通過点になった……そうやって常に「先の先」の目標を作って今までやってきました。

――実際5階級制覇されて、アメリカでの試合も実現されました。今設定している目標は?

藤岡 「ラスベガスで試合をする」ことですね。何億円も稼いでいるトップボクサーたちが試合をする場所なんです。あそこでやれたらボクサー冥利につきるなと。女子がラスベガスで試合をするなんて数年前には考えられなかったんですが、今はあり得る。だったら目指すべきなんじゃないかと思いました。女子ボクシングは日本では認知されにくいんですが、世界が認知したら否応なく日本でも認知されるんじゃないかなという気持ちもあります。

――ラスベガスの次にも、また違う目標を設定されるのでしょうか。

藤岡 今は、それ以上の目標を作ろうとは思っていないです。自分の中ではラスベガスで試合をすることが選手としての集大成かなと。それがクリアできたら、次のステージに行ってもいいと思っています。まだ具体的にはわからないですが、ボクシングを通して、今度は世の中の人たちに貢献できるような仕事がしたいですね。自分にしかできないことはなんだろう?と考えています。

――お話をうかがって、ボクシングの凄さ、おもしろさがよくわかりました。角田さんがボクシングをお好きで、長く続けていらっしゃる理由も少しわかったように思います。

藤岡 角田さん、向いてるんでしょうね、ボクシングに。自分とずっと向き合うところは、もしかすると小説を書くことと似てるんですかね?

――最後に、面と向かっては言いづらいけれど、言っておきたいと思うことなどありますか?

藤岡 角田さんにですか? うーん……いつも面と向かって言っているので、大丈夫です(笑)。

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