「島唄」は、“表向きは幼馴染の男女の別れ”の歌。その一語一語の裏に込められた真実とは? 宮沢和史さんインタビュー

文芸・カルチャー

更新日:2022/5/25

 2022年5月15日、沖縄が日本復帰50年を迎えた。大きな節目の年に、「島唄」の大ヒット以来30年間、沖縄と深く関わり続けてきたミュージシャン、元THE BOOMのボーカル・宮沢和史さんが新刊『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)を上梓した。沖縄について、「島唄」について、じっくりとお話をうかがった。

(取材・文=荒井理恵 撮影=中 惠美子)

誰もが「それぞれの沖縄」を持っている

沖縄のことを聞かせてください
沖縄のことを聞かせてください』(宮沢和史/双葉社)

――まずはこの本を書かれたきっかけについて教えてください。

宮沢和史さん(以下、宮沢) 今年は沖縄にとって復帰50年というとても大切な年で、個人的にはTHE BOOMの「島唄」を発表して30年の年でもあります。「島唄」はずっと歌い続けてきた現役の曲なので、振り返ることもなく前に進んでいたんですが、この30年、僕自身も沖縄とつかず離れずやってきたわけで、そろそろ「島唄」とは自分にとって、沖縄にとってなんだったのかを振り返ってみたいと思うようになりました。そんな中で、本にまとめてみないかとご提案をいただいたんです。内容についていろいろ相談をしていく中で、僕自身ももっと沖縄のことを知りたいので、本の半分は沖縄に縁のある方へのインタビューということになりました。沖縄の方と話しているといつも感じるんですが、みなさんに「それぞれの沖縄」があるし、それは世代によっても違うので。

――元ボクシング世界王者の具志堅用高さんに始まり、お笑い芸人で作家の又吉直樹さん、映画監督の中江裕司さんなど、世代も出身も違う10名の方がご登場されますね。人選はどうされたんですか?

宮沢 沖縄出身の人、沖縄に住んでいてもいなくても沖縄に縁のある人ということで、いろいろ候補をあげた中で選んでいきました。なるべく偏らないようにしようと、上は90代から下は20代まで。長く一緒に活動している方も、初めてお会いした方もいます。いろんな人の沖縄を引き出そう、僕も勉強しようと、コロナ下でもあったのでリモートも駆使してお話を聞いていきました。

――たしかにみなさんの中にある「それぞれの沖縄」を実感しました。

宮沢 戦争を知っている人・知らない人、復帰の前に生まれたか・その後かでも沖縄観は違います。ただ、どの方にとっても「ウチナンーチュ」というアイデンティティの確認が活力の源になっていると感じましたね。みなさんにそれぞれの沖縄があって、「ウチナーンチュとは何か。自分は何者か」という、見えない概念と現実の自分との距離感を探っているというか。たとえば、「自分は沖縄の言葉をしゃべれないのにウチナーンチュなんだろうか」みたいな命題とか、そういうのをみなさんがそれぞれ持っていらして、それが活動の源になっている。

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――たしかに沖縄では歌の歌詞にも「沖縄」ってすごくよく出てきますし、アイデンティティの拠り所の強さは感じていました。それは活動自体を支えるものでもあるんですね。

宮沢 そうだと思います。世界各地にある沖縄移民の方々のコミュニティにも行きましたが、そこでもみなさんがやっぱり「ウチナーンチュとはなんぞや」というテーマを抱えて生きてきたことを感じましたね。そもそも第一次・第二次大戦を通じて沖縄は貧しくて、それでも人口が増える中で、どこか新天地を見つけなければと人々が外に出ていったわけですが、出ていった先で差別されたり、国内の尼崎とか川崎に働きに行っても虐げられたり、とても苦労されてきたわけです。それでもそれを「ウチナーンチュとはなんぞや」をみんなで確認する、自覚することで乗り越えてきたように思いました。

 一方で「ウチナーンチュってことをあんまり言いたくない」という人もいます。ミュージシャンでも「もっとフラットに見てくれよ。なんで沖縄出身だからって沖縄の音楽をやらなくちゃいけないんだ」みたいな感じの人はいますが、それも一つのアイデンティティへの向き合い方ですよね。受け入れるにせよ、反発するにせよ、そうした「自分とは」を考えるエネルギーは、現在、音楽の世界だけでなく、スポーツ、役者など各界で沖縄の人が一線で大活躍することにもつながっていると思います。その根源は「ウチナーンチュとはなんぞや」という命題から逃げなかったことにあるんじゃないかと。現代社会では「そういうのはもういいよ。めんどくさいし、重いから」という風になりがちだし、考えなくても生きていけると思うんですが、彼らはそこから逃げなかったわけです。

沖縄のことは「歌」から学んだ

――宮沢さんの沖縄文化に関する知識の深さに驚きました。かなり勉強もされたんですか?

宮沢 勉強はあんまり得意じゃないんですが(笑)、僕は沖縄民謡が大好きで、それで沖縄が好きになったので、振り返ってみるとやっぱり「歌」から学んだことが多いですね。この本にも書いていますが、以前、沖縄民謡の様々な名曲を245曲、17枚組のCDにアーカイブ化したことがあるんです。それを作った5年間というのは僕にとってとても大事で、沖縄と自分が関わってきたことの答えあわせみたいなものでもありました。本もたくさん読みますが、たとえば、歴史書なんかでは、その時の権力者が書いたものが事実みたいになりがちですよね。力を持つ者が振り返った回想が史実になるというのも変な話で、書物にはそういうところに僕らが迷い込んでしまう危険性もあります。しかし、民謡はそうじゃない。勝者の側から庶民を眺めた目線じゃなくて、本当の庶民の目線、這いつくばった人間の目線が描かれているんです。

 たとえば、「屋嘉節」という民謡からは、第二次世界大戦中に米軍が屋嘉に設けた捕虜収容所に投降した7千人の人々の姿が浮かんできて、どんなものよりもリアルで怖いと感じます。誇張もしていない等身大の悲しみ、喜び、そういうものが歌から伝わってくるし、人々がその歌を愛して歌い続けてきたということにも学ぶことがある。そんな風にたくさんの沖縄の歌を聞いて、ひもとく中で学んだことが一番多かったですね。

――沖縄民謡は好きでも、音として聴くだけの人も多いように思います。その奥に入るとまた違う世界が広がるわけですね。

宮沢 「よく言葉がわからないから、みんな『ハイサイおじさん』に聞こえちゃってあまり入っていけない」という人もいますが、とてももったいないですよね。たとえば、ニューオーリンズの黒人の音楽とかゴスペルとか聴いて、「いいなあ」って言うじゃないですか。ただし、語学に堪能じゃなければ、歌の意味はわかりませんよね。それに比べると沖縄の言葉は日本語とものすごく近いし、ほぼ一緒な部分もあります。発音がちょっと違うので情感を理解しにくいだけで、漢字は一緒ですから字に起こして歌詞を読めばものすごく伝わってくるはずなんです。

 たとえば、朝ドラのタイトルの『ちむどんどん』にしても、「ちむ」は「肝」が沖縄なまりになっているだけで、「キモがどんどん」する、要するに「心臓がドキドキする、わくわくする」ということなんです。こういうことをうまく穴埋めしてあげれば、沖縄民謡を聴くファンがもっと増えると思います。今はたくさんの若い人たちが民謡や古典音楽を志すようになっていますが、聴く人が減っていってしまったら、いずれその文化は廃れてしまう。そうならないように、僕にできることで沖縄の民謡の素晴らしさを人に伝えることに関わっていきたいという思いがあります。

――歌詞をちゃんと味わいたいからこれだけJ-POPも流行っているわけで。沖縄民謡もちゃんと「言葉」として受け取ると世界が広がりそうです。

宮沢 音楽を構成する基本要素にはリズム、メロディ、歌詞、ハーモニーなんかがありますが、中でも歌詞って大きいと思うんです。沖縄では古典音楽も民謡も基本的には「琉歌」という、八・八・八・六の30音で構成された日本でいう「短歌」のような形式で歌詞ができてるんですが、独自の美しさがあるんですよね。短歌にも普通の会話とは違う、洗練された香り高い独特の美意識がありますが、琉歌も同じです。さらにその美しさを競う中で文学的な水準も高くなるし、しかも庶民の目線で世の中が詠まれているのでエスプレッソのような濃さもある。ただの歌詞とは違うそうした魅力を知るほどに、「もっと知りたい」と思いますね。

長く明かさなかった「島唄」に託された本当の意味

――そんな沖縄の歌の世界に「島唄」は大きな衝撃を与えました。「島唄」の歌詞がダブルミーニングになっているのは本で初めて知りました。

宮沢 「島唄」は、沖縄のひめゆり平和祈念資料館で学徒隊の戦争体験者からお話を聞いて、あまりにも自分が沖縄戦に無知であることに叩きのめされたことで生まれました。どうしてこの歴史を知らなかったんだろう、と。本土防衛の捨て石にされた沖縄の、住民と日米の兵士もあわせて20万人以上の死者を犠牲にして戦後日本の平和がある。その中でうちの親も出会えたんだろうし……。そう考えると、自分の存在も曖昧なもののように思えてくる。僕の母方の祖父は硫黄島で玉砕しているので、それもあって他の人より沖縄への関心を抱きやすかったとは思いますが、それでもとにかく衝撃でした。だから「島唄」は沖縄戦のことを僕のような無知な人間に届けたくて作ったんです。ただ発表当時の1992年はバブル景気を引きずっていた時代でしたから、「戦争反対」「沖縄戦では4人にひとりが亡くなったんだ」みたいなことをストレートに歌っても届かないと思ったので、表向きは幼馴染の男女の別れにして、一語一語に裏の意味を持たせるようにしました。

――本でも解説されていますが、あらためて教えていただけますか?

宮沢 最初は読谷村(よみたんそん)の景色から始まります。僕が沖縄に行きはじめた頃、空港で戦争の写真集が売られていたので見てみたら、その中に強烈な写真がありました。現在の読谷村の、陸地から海を見渡した写真で、アメリカの艦船が海を埋め尽くさんばかりに隊列を組んで、これから上陸するぞというようにこちらを見ている。背筋が凍りましたね。そのあと、その艦船から「鉄の暴風」と称されることになる艦砲射撃の嵐が沖縄に降り注ぐことになりました。

 沖縄には「デイゴがたくさん咲く年は台風が多い」という言い伝えがありますが、もしかしたら1945年にもデイゴがたくさん咲き、そしてこの嵐がきたのではないかというイメージから着想したのが、Aメロの「でいごの花が咲き 風を呼び嵐がきた」という部分。Bメロでは、ウージ(サトウキビ)の畑でかくれんぼしていた幼馴染同士なのに、その畑の下(注:畑の下には防空壕になった「ガマ」があった)で自決しあわなければならなかった、なぜこんな悲劇に巻き込まれなければならなかったのだろうか。そんな思いを込めて、「千代にさよなら」「八千代の別れ」という言葉を選びました。このBメロの部分を琉球音階でなくて西洋音階にしたのは、彼らに命を捨てさせたのはヤマトの軍国主義教育であり、「敵に捕らえられるくらいなら自決せよ」と刷り込まれていた風潮であると思ったからです。ヤマトの人間である自分がここに琉球音階を使うのはありえないと思いましたし、ここでは三線も弾いていません。

――このダブルミーニングは長い間明かしていらっしゃらなかったと。

宮沢 長く歌っていけば、音楽的なアレンジや歌詞のトリックでいずれ誰かが気がつくかもしれないし、ボディブロウのように効いたりするかもしれないしと思って、あえて種明かしはしませんでした。そんな中で時が経って「こういう意味ですよね」みたいにおっしゃる方が出てきたり、学校の平和教育で子どもたちの前で話をしたりする中で、今のような説明をするようになりましたね。これまで「島唄」に関しては数え切れないほどのインタビューを受けてきましたけど、もっと話したいこともあるし、この歌の意味のように、しばらく話してこなかったこともありました。とはいえもう30年経ったし、この本がそろそろ制限なく話すいい機会になったと思います。まだまだ話し足りないことは、この分厚い本以上にありますけど…。(後編へ続く)

※後編は5月26日(木)11:00公開予定です。

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