「墓友」はやっぱり必要? 「孤立死」「自殺」…特殊清掃を通して見えてくる生と死

社会

更新日:2014/10/23

 墓友という言葉を最近、耳にする。はじめて聞いた時は、なんだか不気味な感じがした。決してお墓が“家族で入るもの”というイメージが強かったわけではない。墓友という軽い言葉の響きによって現実の世界と死後の世界の境界線が薄く感じられるたからだ。

 墓友は必要なものなのだろうか? 昨今では孤立死、自殺など、他者との関わりが薄い結果、陥ってしまっただろう孤独な死が多い。『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』(特掃隊長/ディスカバー・トゥエンティワン)は、特殊清掃作業をする男性のブログを書籍化したものだ。著者である特掃隊長は特殊清掃を行う会社を経営している。

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 特殊清掃で多いのは、孤立死や自殺だ。孤立死においても自殺においても家族や周囲との関わりが薄くなかなか発見されないことが多い。発見が遅れた死体の多くは腐敗し、ハエが飛び、ウジがわき、異臭がする。本書で書かれている遺体についても、布団や床に体内の液がくっきりとし染みつき人型の跡を形成していたり、浴槽の中でドロドロとした粘土状になっていたり、と実際に見た人でないと想像できないような状態が描かれている。

 本書で書かれているなかで一つ気になるブログがあった。

 真友と題されたブログで、身寄りのない女性宅の特殊清掃の話である。依頼主は故人に生前世話になった男性だ。

 故人が亡くなったとされるトイレと脱衣場は特掃隊長が現場に着く前に男性によって綺麗に片付けられていた。腐敗痕からして相当、腐乱していただろうと思った特掃隊長は、ここまで綺麗にした男性に驚いた。

 特掃隊長は事情を聞く。依頼主の男性はかつて商売をしていた。景気のいい時代もあり、その頃は交友関係も広く、いろんな人が男性に近づいてきた。しかし、不況のあおりから、経営が厳しくなり、肩書も金も失った男性から友達や仲間だと思っていた人が次々、離れていった。そんな中で故人だけは離れずに損得勘定抜きで男性と付き合い、精神的にも経済的にも大きな支えになった。

 特掃隊長は「親友をたくさん持つ人はいるけれど、はたして、その中に本当の友、真友はどれくらいいるだろう」と言う。

 孤立死や自殺を防ぐために必要なのは何も家族の支えだけではない。本当に心から繋がっている友達がいれば、家族ですら嫌がる腐敗した体の処理も行ってくれる。この場合はたまたま発見が遅れてしまったが、親交も多かったため早く発見することも可能だっただろう。人間というのは死んでしまえばそれまでで、何も残らないわけではない。死後も肉体はこの世に存在し朽ち果てていくまで、物質として残り続ける。

 生の繋がりは死後もこの世に残ると思えたところで、墓友の話に戻そう。

 『私の死生観』(与謝野馨、森本敏、三枝成彰、安藤和津、奥田瑛二、堀紘一、川島なお美/KADOKAWA 角川書店)という本がある。そうそうたるメンバーが自分たちの死生観について語る本書だが、与謝野馨、森本敏、三枝成彰、安藤和津、奥田瑛二、堀紘一、川島なお美の7名は墓友である。同じお寺の墓地の一画に墓を買っている。

 はじまりは与謝野馨が、友人の掘紘一に墓地の一画をすすめたのがきっかけであり、人が人を呼び今でも墓友メンバーは増え続けている。そしてこの墓友メンバーは年に一度お墓に集まり、一緒に墓参りをし、近くの蕎麦屋で宴を行う。自分たちが死んだ後も墓友の子どもや知り合いが墓参りついでに飲みにこられるような環境が理想だと言う。

 生前からの親交が深いメンバーが集まるこの墓地は、メンバー全員が亡くなった後もお墓の周りはにぎやかなのだろうという雰囲気がある。

 死んでしまえば終わりではない。人間は死んだ後もこの世に残すものは多くある。それは肉体であり、お墓であり、さまざまだ。何をどう残すか、考え方はいろいろある。

 ただ、肉体も腐り骨の引き取り手もなく、お墓もない。そんなことにならないように生きている間に人との縁を作っていこう。それが墓友という形であったとしても、悪くないだろうと筆者は思う。

文=舟崎泉美