震災後の時間を生きる個人とその家族の運命を描いた最新作『持たざる者』【金原ひとみインタビュー】

文芸・カルチャー

公開日:2015/5/7

「私自身も出産や移住など、さまざまな理由で書けなくなって、自分が本当に何も持たない生身の生き物であることを実感しました。だからタイトルは『持たざる者』なんです。これまで見据えてきた世界や未来予想図が、すべて幻想だったんじゃないかと考え、ふっと無重力状態になってしまう瞬間に、人間は一人の裸の、一つの生き物に立ちかえるのだと思います」

 急病によって千鶴は子供を失うが、同じようなシーンが『マザーズ』にもある。それはママさんモデルの五月の娘が自動車事故で亡くなるシーンだ。同年代の子供をもつ金原さんにとって、作中に子供の死のシーンを挿入することは躊躇われるはずだ。もっとも避けたい「最悪の状況」を金原さんはあえて書く。

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「『マザーズ』は長期連載だったということもあり最初から決めていた物語展開でしたが、実際にその回を書く時は躊躇しました。事故に遭っても子供が生き残る道を考えたりしましたが、やはり物語の必然として回避することはできず、号泣しながら書きました。その後、一週間ぐらい喪に服す感じで、不安定な精神状態が続きました。常に自分の子供に死や暴力が振るわれることを考えている作家のユカではなく、単に幸せを追い求めていた五月が娘を失ってしまうことが大きかったです」

 震災以後、人の死を描くことに対して作家は敏感になっている印象がある。小説の登場人物の死に対して、たとえそれがフィクションの中の死であったとしても、作家は責任を負うべきなのだろうか。

「『マザーズ』のそのシーンの執筆中、自分がこういう小説を書きたいとか、こういうことを表現しようと考え、その結果、小説の中で人が死ぬシーンを書くのは欺瞞なんじゃないかと考えるようになりました。自分の小説だからといって登場人物に何をしてもいいわけではない。最終的に小説にとってベストの道を否定することはできない考えに辿り着いて、自分自身も五月と同じように真正面から彼女の娘の死に向きあえた気がします。千鶴はまったく立ち直っていないし、先が見えない状態ですけれど、私は書くことで登場人物の死に向きあうことができたと思っています」

 大きな喪失を経て、「この、依拠するもののなくなった世界で、私は一対何を指針に生きていったらいいのだろう」と千鶴は考える。個人と個人、個人と社会が分断された震災後の時間を、わたしたちはどのように生きればいいのだろう。

「これまで指針があるような気がしていたけれど、実は幻想だったんじゃないか。そのことがはっきりしたのが震災だったということなのだと思います。指針がない状態に耐えられなくなった人が、安易な場所に指針を求める弊害も出てくると思います。個人個人が自分の資質で自分なりの指針を見つけるしかない。指針がない状況というのは、ふりだしに一度戻ったという点で“希望”と言えるかもしれません」

 千鶴の妹で、六歳の娘セイラとともにイギリスに放射能避難してきたエリナのロンドン生活を描いた章が「eri」である。彼女の元に知らない日本人男性からSNSの友達申請が届く。イギリスで生活する妹の話を千鶴から伝聞した修人が、エリナに向けて送信したものであった。金原さんによれば、章タイトルは、それぞれの主人公のSNSのアカウント名であるそうだ。主人公がSNSでコミュニケーションすることで、その他の章の主人公の近況が読者に伝わる仕組みになっている。

 みずからの意思と努力でイギリスに来たはずが、エリナは人生を選択した気持ちになれない。「私はただ、決められた一本道をひたすら歩いて来ただけ」との思いを拭い去ることができない。

「自分の道はあらかじめ決まっていて、その道に沿ってただただ歩いてきた感じ。人生って実はそういうものなんだと思います。選択肢があるようで実はない。必然的な時間の流れの集合としてしか人生はとらえることはできないのではないでしょうか。私も三十歳を過ぎて、みんなではしゃいだり、楽しいことをして遊んだり、そういうことでは楽しめなくなってきています。若い頃に感じたような、一冊の本で人生が変わるとか、一本の映画で価値観が変わるとか、そういう衝撃的な出会いや体験がない。さらに子供と一緒に生活していると、毎日が同じことの繰りかえしに思えてくるんですね。エリナの蝕まれる『終わりなき日常』のように、ただ延々と続いていく日常だけがそこにある。日常に蝕まれていくことにまつわる虚無感は、現代を生きる誰もが持たざるをえない感覚だと思います」

 放射能から避難しようと考え、行動し、最終的に辿り着いた場所が「己の本来性の問題」であることにエリナは気づく。日本とは価値観の異なるヨーロッパの地で、エリナは「自分が唯一無二の存在であるという思い込み」を喪失する。

「海外生活を送っていると、自我がズレていくことに気づきます。余裕のある生活を送っている時は自我が肥大しますよね。だから自分を唯一無二の存在に思える。就労ビザを持っていないエリナにとってイギリスでの生活は、短期的な移民生活のようなもので、その土地に根を下ろした生活者のものではありません。だから直接的な問題に直面しやすい」

 そんな彼女に出会いがもたらされる。ウエストエンドのスターバックスで声をかけてきたベルギー人の若きダンサー、ユーリ・ニールマンとの出会いだ。

「世界はよい方向に変わることもあります。人との出会いは、スタートラインに立ち戻って自分の生き方を再考するチャンスをもたらします。そういう意味でユーリとの出会いは、エリナに『決められた一本道』を脱出する機会を与えたのだと思います」

 物語の最後を締めくくるのは、エリナと親交があった「朱里」の章。海外駐在員の妻としてイギリスに赴いた朱里は、二年の歳月を経てようやく解放され、四歳の娘の理英とともに一足先に帰国の途につく。二十五年ローンで建てた二世帯のマイホームで、義父の介護をしながら生活するのが朱里の建てたプランであったが、帰国後の家にはなぜか義兄夫婦が転がりこんでおり、自分たちの住む予定の部屋が占領されていた。家事をいっさい行わない義姉。妻のご機嫌とりに終始する義兄。想定外の事態に、朱里の精神は徐々に追いこまれていく。

「修人、千鶴、エリナの三人が少し変わった環境におかれ、少し変わった考え方をする人たちだったので、最後に一般的な状況におかれた、通俗的な人物を持ってこようと思いました。朱里には朱里の理想とする世界があって、その世界を必死になって守ろうと、ただただ誠実に生きているだけなんですけれど、『なんでそんなことで悩んでるの』『出ていけば?』と心の中で苛立ちながら書いていました(笑)。他の三人とは違って、彼女は自分の完全な世界を持っているんですね。これが幸せ、これが欠けたらダメという具体的なイメージがある。だから他人によってそのイメージが侵食されると、天国から地獄へ一挙に突き落とされた気分になるんです」

 精神的に追いつめられた朱里は、「自分が何も持たない、何も生み出さない限りなくゼロに近い存在である事」に気づき、傷つく。

「いま自分が手にしていると思っているものは、幻想かもしれない、思いこみかもしれない。皆が“持てる者”ではなく“持たざる者”なのではないか。そういう提言をこめました。今の日本を考えると、何も持たないまっさらな状態で生きる場所に立ちかえらざるを得ない状況に陥っているんじゃないかと思います。先ほどの話の繰りかえしになりますが、これまで前提とされていたものとか、ある文脈の中で行われてきたことのすべてを取っ払って、一からもう一度考え直さなければならない場所に私たちは立っているのではないでしょうか」

 震災と原発によって「ご破算」になった日本で、個人が何を考え、どのような行動をとり、どこに向かうのか。震災から二年半の時間を経過した時間の中で、苦しみを経た四人の主人公がそれぞれ異なる仕方で新たな一歩を踏みだそうとする、その直前の瞬間までを金原さんは描く。

「四人の未来はどうなるかわかりませんが、物語の外に良い形で送りだしてあげたい気持ちで書きました。新たなスタート地点に立った主人公たちのどこかに、読者の方たちも思いを寄せられる部分があるのではないかと思います。今の自分に迷いがある方や、不安を持っている人たちに、それぞれの人物を一つのロールモデルとして受け取ってもらえれば嬉しいです」

 家族小説を志し、果敢に挑戦してきた金原さんが到達した『持たざる者』は、金原さんにとって家族小説の「決定版」たりうる作品に仕上がったのだろうか。

「『マザーズ』は母性にテーマを絞った作品ですし、家族のあり方や関係性を細かく描いた点では、家族小説としてのアピール度は『持たざる者』が一番だと思います。『マザーズ』の結末では、三人の母親それぞれの“祈り”としか表現しえない感情を書きました。でも震災後、祈るだけではどうしょうもなくなってしまった。“祈り”のその先に“希望”はあるのだと思います」

「祈り」の先に「希望」を見据えること。それこそがいずれ書かれるべき金原さんの小説のテーマなのかもしれない。

「新しい作品を書く度に、自分自身を更新していく感覚があります。常に、さらにその先に行けるようなものを書いていきたいと思います」

取材・文=榎本正樹

『持たざる者』(金原ひとみ/集英社)