異色の漫画家対談――かわぐちかいじとこうの史代が広島で語ったこと【前編】

マンガ

公開日:2016/8/15

 『沈黙の艦隊』『ジパング』『空母いぶき』などを手がけるかわぐちかいじ氏と、『夕凪の街 桜の国』そしてこの秋映画も公開予定の『この世界の片隅に』の原作を生み出したこうの史代氏の2人の漫画家が、7月広島で対談形式での講演を行った。広島出身の2人の才能がはじめて会したこのイベントは比治山大学の特別公開講義、そして今年広島で開催となる広島国際アニメーションフェスティバルの協力イベントとして行われたものだ。その様子を独占インタビューも交え2回にわたってお伝えしたい。

描き始め、描き続けること

 広島県尾道市出身のかわぐちかいじ氏はまもなくデビューから50周年を迎える。講談社漫画賞を前人未到の3回にもわたり受賞し、政治や外交・歴史をテーマにした作品は時に社会現象を巻き起こすことも。一方広島市出身のこうの史代氏は、繊細な筆致と綿密な取材で日常生活を描き出した作品を得意とし、手塚治虫文化賞新生賞を受賞している。世代も作風も異なる2人はどんなきっかけで漫画家を目指し、どんなモチベーションでいまも創作を続けているのだろうか?

かわぐちかいじ(以下、かわぐち):漫画誌が次々と創刊された第一次漫画ブームの頃、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』の模写を始めたのがきっかけですね。双子の弟と自分たちの漫画の世界で遊んでいた感じでした。弟がいたから中学、高校へと進んでも漫画を描き続けていました。彼の大学には漫画研究会がなかったので、そこで彼は描くのを止めてしまったんですが。

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こうの史代(以下、こうの):わたしは4人兄弟の2番目なんですが、あまり漫画を買ってもらえない家だったものですから、自分で描いていました。他の兄弟はやはり描くのを止めてしまったのですが、わたしは楽しくて、これは生きがいだと中学の頃には感じるようになっていましたね。

かわぐち:自分が描いたものを誰かが読んでくれないと、なかなか続かないですよね。

こうの:わたしの場合も兄弟が読んでくれたので、楽しかったんだと思います。無理矢理読ませていました(笑)。

かわぐち:子どもの頃は兄弟や友だち、大人になって漫画を仕事にしてからは、編集者が最初の読者になりますよね。彼らは本当にありがたい存在です。誰かが読んでくれるからできることで。

こうの:ほんとその通りですね。(かわぐちさんのように)長編ともなるとよっぽどのエネルギーがないと――。

かわぐち:こないだ僕のところにもオレオレ詐欺の電話が掛かってきて、「これは息子からの電話だ」と思い込むと、そう信じちゃうんだよね(笑)。漫画も同じ。

こうの:わたしも「これでいい」と思っているところを「削りましょう」とか言ってくれる編集者はありがたいですね。「何を!」って最初は思いますけどね(笑)。

かわぐち:単なる好き嫌いで指摘しているなというのは分かります。作品のことを本当に理解して論理的に語ってくれると、それは聞きますね。

こうの:わたしが作品を生み出す母親だとすると、編集さんは父親のような存在ですね。いなくても作品は育つんだけど、わたしの場合、「好きなようにやっていいよ」といわれて野放しの状態になると、わたしが好きな、得意とする方向にどうしても向かってしまう。新しい風が入ってこないんです。

かわぐち:長くやってると飽きてくるしね。『沈黙の艦隊』も長くやっていると飽きて辛いこともありましたよ(笑)。

こうの:そうなんですね(笑)。そんな時はどうされたんですか? 登場人物に変わったことをやらせたりとか?

かわぐち:主人公の新しい面を見つけて、読者に紹介したりはしますね。でもやっぱり大事なのは意欲をもって描くことですね。読者は敏感ですから、意欲を失うとすぐに気付かれてしまいます。

 僕は「物語の結末は決まっているんですか?」と聞かれると、「決まってます」と答えるんですが、実は決まっていません(笑)。昨日決めた流れが翌朝変わることもある。漫画は生ものだと思うんです。自分の決めた道筋をなぞるだけでは意欲は下がってしまう。そこから外れて発展するから漫画って面白いと思うんですよね。

 僕は漫画を描くのは面白くて仕方がないんです。こんなに面白いんだから、もっとずっと続けたい。だからスケジュール管理もきちんとするようになりました。

 決められた道筋をどう発展させるか、という話題から2人が手がける「原作」や「史実」がある漫画へと発展。こうの氏は古事記をコミカライズした『ぼおるぺん古事記』、かわぐち氏は源平合戦をテーマにした『ジパング 深蒼海流』を紹介しながら、原作や史実にどのようにファンタジー的な要素を加えながら、エンターテインメントに昇華させるのか、互いの創作論が展開された。

かわぐち作品の「目力(めぢから)」とこうの作品の「間」

 司会を務める美術科教員の久保直子氏が水を向けたのが、「かわぐち作品の目力」だ。コマに大写しになった登場人物がまっすぐに読者を見据え力強いメッセージを送ってくる。一方で、こうの氏の作品の台詞には「……」のような「間」や「行間」を感じさせるものが多い。方向性が異なる2人がそれぞれの表現に込めた思いとは。

かわぐち:漫画の絵って「記号」なんです。漫画家が現実から物事を抽出して誰もが分かるもの=記号にしていく。例えば目の大きさもそうですが、顔の形なんかもそうですよね。そこで性格でさえも記号に込めて伝えることができる。その方が描くのも楽だったりします。

 ただ、ここには落とし穴があって、記号化が進むとどんどんデフォルメされてしまって、現実から離れていってしまいがちなんです。そうするとリアルでなくなってしまう。そうなっちゃうと面白くなくなってしまうし、作品としての生命力を失ってしまうんですね。

 だから実は僕の作品はいま目が大きくなりすぎていると思っていて、記号寄りからリアルに戻していきたいと思っているんです(笑)。

こうの:記号化した方が楽というのはたしかに。表現したいことが描きやすくなりますし。わたしも色々試してきましたが、逆に疲れてしまうので目は大きくしない方向になっていますね。

かわぐち:実際の人間の顔を見直して、もう一度面白い記号を作っていきたいと思っているんですよ。

こうの:かわぐち先生の作品は登場人物が多いので、描き分けも大変ですよね。

かわぐち:僕は漫画家の画力ってメインキャラクターではなくて、ちょっとした端役に表れてくると思ってます。主役は力を入れて描きますけど、モブシーンで真価が問われますよね。僕も、疲れてくると同じような顔になっちゃいます(笑)。

こうの:脇役って自分に似てきませんか?

かわぐち:そりゃ描きやすいように描くからですよ(笑)。主人公は「憧れ」の対象なので自分には似ないけど。疲れてる時に脇役を描くと自分の顔を描いちゃいます(笑)。

 ここで久保氏から、学生たちも頭を悩ませるネームやコマ割りについて水が向けられた。かわぐち氏は「これらは“演出”だ」とし、再び黒板を使って説明を始める。

かわぐち:映画の場合、フィルムのコマ1つ1つにシーンが記録されます。それを連続して撮影することで残像を利用しながら動いているように見せているわけです。一方漫画は、ページのなかで、演出意図にそってコマを配置していく。読者はコマを読み進めることで動きを感じながら、止まっているコマで無意識のうちに演出意図も受け取ることになります。映画では流れていくものを、漫画の場合は「こう受け止めてもらいたい」という意図を明確に見せ、それを読者と共有して楽しんでもらおうということなんですね。

こうの:たしかに、かわぐち先生の作品を読んでいると、台詞がないけれどコマに大写しになる人物が登場したりして、「この人なんなのだろう」と気になってしまって、そのあとも彼のことを物語の中で追いかけてしまったりしますね。次にどんなことを言うのかワクワクして待つような。そのあたりはかわぐち先生が映画を意識しながら作品を描いていることに通じるのかも知れませんね。

かわぐち:そうかも知れません。僕は「……」を描くのはなんとなく気恥ずかしくて、あまり使わないんですが。

こうの:そんなことを言われるとわたし が恥ずかしくなってしまいます(笑)。

かわぐち:台湾の漫画家たちと話したとき に、「……」は間で、台詞がなければ沈黙なんだ、という話をして、なかなか理解されなかったことがあります。日本の漫画ではそういう間を楽しんでもらうわけなんですけど、あちらの人たちは黙っていられない国民性だから(笑)。

こうの:(笑)。わたしはかわぐち先生が描く沈黙は、先生が考えを纏めておられる時間でもあるんだろうなと思いながら読んでいます。『ジパング 深蒼海流』の中では徳子が義経に自分の名を告げるまでに何ページもの沈黙があって、とても印象的でした。

かわぐち:意図を正しく汲み取っていただいてありがとうございます(笑)。

 このあと講演は、広島県出身の2人の広島への思いや、それがどのように漫画に反映されているのか、といった話題に広がっていった。温暖で過ごしやすい広島は、若者に「ここから外に出ていかないと」という思いを逆に抱かせて、漫画家として東京に出ていくという決断を後押ししたのではないかといったユニークな見解も。満員となった教室で、漫画家を目指す若者たちが熱心にメモを取る姿が印象的だった。後編では講演後に行ったインタビューをお送りする。<前編・了>

取材・文=まつもとあつし