「学校に行かない」ことを選んだ、10代の書き手・別府倫太郎くんによる読む人の心を揺さぶる瑞々しい作品集

文芸・カルチャー

2017/6/2


『別府倫太郎』(別府倫太郎/文藝春秋)

現代に生きる人たちは、仕事や勉強をするために必要なエネルギーを生み出すゼンマイ(もちろんゼンマイが比喩であることは言うまでもないのだけれど)を、毎日自分の手でギリギリと巻き、あと少し巻いたら切れてしまうくらいまできつくきつく締め上げて、それをほとんど緩めることなく生きている。

そうしなければならないのは、世の中が動いていくスピードが勢いを増しているからだ。10年前、いや5年前に比べても、日々処理しなくてはならないことは格段に増えてしまった。目の前に現れたことを自分に必要か必要でないかを基準にして峻別し、目が覚めている間はひたすら捌き続けなくてはいけない。もちろん世界中のいま知るべき大事なことや、面白い出来事に出会う機会が増えたのは間違いない。しかし悲しい事実や誰かの悪意(意識的な場合もあるし、無意識的なものもある)に心を痛めたり、集団やシステムが存続するための強烈な流れに飲み込まれるなどするうちに疲弊し、巻かれていたゼンマイがある日突然ブツンと切れてしまう人も増えてしまった。

もちろんこの原稿もそんな増えてしまった情報の一部だ。しかし目をとめてくれた方は、別府倫太郎くんというひとりの少年の存在を知る機会を得たことを喜んでほしい。

本書『別府倫太郎』(別府倫太郎/文藝春秋)の表紙で降りしきる雪の中微笑んでいるのが別府倫太郎くんだ。新潟県十日町に住む今年15歳の男子で、処女作となる本書のタイトルも本人の名前であり、揮毫も本人によるものだ。収録されている散文や詩、手紙、日記、紀行文、小説はすべて倫太郎くんが取材し、考え、書き、編集したものだ。

倫太郎くんは5歳のときに円形脱毛症から全身の毛が抜けてしまい、7歳で小児ネフローゼ症候群という病気になった。薬の副作用で太ったり痩せたりを繰り返していて、学校へは行っておらず、ひとりで本を読み、学んでいる。しかしそれは“別府倫太郎”というひとりの人間の個性であり、様々な問題を考えるきっかけを彼に与えている要素に過ぎない。倫太郎くんはそこを出発点にして、思考し、文章を練り、いつの間にか多くの人たちに染み付いている世間のルールや、見て見ぬふりをしていること、常識と思われていることに潜む欺瞞に対して疑問を呈し、本質を突いてくる。彼は10代半ばにしてすでに哲学者なのである。

倫太郎くんが好きな本だという『嘔吐』(ジャン=ポール・サルトル:著、 白井浩司:訳/人文書院)にはこんな一文がある。「私の考え、それは〈私〉である。だから私にはやめることができない。私が実存するのは、私が考えるからだ……そして、私は考えずにはいられない。いまのこの瞬間でさえ――まったくいやになるのだが――もし私が実存するとすれば、それは、実存することにひどく嫌気が差している〈から〉だ」

サルトルと同じように、倫太郎くんは自分の存在に悩みながらも、考えることをやめない。そして綴られる瑞々しい言葉には、現代人が忘れている、もしくは日々見ないよう考えないよう気持ちに蓋をしていることを思い出させる力と、躍動する生命のリズム(彼の句読点には独自の息遣いを感じる)がある。しかしこの本にある言葉はすぐには役に立たないと思う。それはじっくり読んで、考え、咀嚼して取り込んで、自分の血肉になって初めて意味を持つ言葉であるからだ。

日々大量に消費される、すぐに泣けたり感動したりする話は、巻かれたゼンマイを少しだけ緩めてくれるかもしれない。しかし物事の本質を理解し、心の奥底に深く刻まれる思いを抱かせるもの――それはゼンマイを完全に緩めること、もしくはゼンマイに代わるまったく新しい駆動方式を採用することだ――は、ある程度の痛みと時間を必要とする。この本は、そんな当たり前のことを思い出させてくれるだろう。

文=成田全(ナリタタモツ)