【凪良ゆうが描く人類滅亡前の世界】「引くわ」初恋の彼女が放った一言に、二度目の恋を/滅びの前のシャングリラ③

文芸・カルチャー

更新日:2021/1/21

『流浪の月』で2020年本屋大賞を受賞した作家・凪良ゆうさん最新作。
クラスのカースト上位男子からいじめを受ける17歳の友樹は、小学生の頃から同級生の雪絵に片想いをしている。
ところがある日、地球に小惑星が衝突して人類が滅亡することがわかり…。
滅亡を前に、絶望と混沌のさなかをどう“生きる”かを描く、傑作小説。

【第1回から読む】17歳、クラスメイトを殺した。/凪良ゆう『滅びの前のシャングリラ』①

滅びの前のシャングリラ
『滅びの前のシャングリラ』(凪良ゆう/中央公論新社)

* * *

advertisement

 あんな奇跡のような一場面が、ぼくと藤森さんの間にあったなんて夢のようだ。いや、本当に夢かもしれない。レベルちがいの片想いをこじらせたあげく、妄想が得意なぼくが勝手に記憶を捏造した可能性―はさすがにない。なぜなら、あのあと正しく夢から醒めたからだ。

 うちには年末年始に帰省するような祖父母宅はなく、いつもと同じく母親とふたりで代わり映えなく過ごした冬休みの間中、ぼくは藤森さんと行く東京のことばかり考えていた。

 新幹線の切符の買い方を調べたはいいけれど、びっくりするぐらい高く、もっと安い高速バスというものを見つけた。それなら今までためた小遣いでぎりぎり足りそうだと何度も計算し、泊まりになるけど大丈夫かなと心配し、好きな女の子との旅行に胸を高鳴らせ、観光地や店を調べ、会話のネタまで練り、妄想まじりのシミュレーションを繰り返した。

 三学期の初日は期待と歓びに満ちて登校した。教室のドアを開けると、一番に藤森さんの姿が目に飛び込んでくる。自分の席に向かう途中、高鳴る胸を抑えつけて声をかけた。

「藤森さん、おはよう」

 つややかな黒髪のポニーテールが振り向き、ぼくのテンションは最高潮に達した。

「藤森さん、あの、あのさ、あれから東京のこと」

 たくさん調べたよと言う前に、藤森さんは怪訝そうに首をかしげた。

 ―わたしに話しかけてるの?

 とアテレコがつきそうな表情だった。固まっているぼくを困ったように見たあと、藤森さんはくるりと仲良しの友人たちのほうへ向き直った。藤森さんの肩越し、どうしたの? なに? という顔をしている女の子たち。女の子たちは、ぼくと藤森さんを見比べている。

「雪絵ちゃん、江那くんと仲良かったっけ」

「さあ、わからない」

 藤森さんは小さな声で答えた。女の子たちは不思議そうにぼくを見たあと、どこか残酷な視線を交わし合う。ぼくはその場を通り過ぎ、自分の席に着いた。藤森さんたちのほうを見ないよう、何事もなかった顔で鞄から教科書を出して机にしまいながら、これ以上ない羞恥に耐えていた。

 ―SOS地球、SOS地球、こちらぼく。緊急事態発生。

 ―今すぐ爆発して、人類を滅亡させてください。

 好きな女の子に無視された。小学生男子が地球爆破を願うには充分な理由だろう。

 あのとき、ぼくは身の程というものを知ったのだ。世界は格差に満ちていて、下のぼくと特上の藤森さんを結ぶものなどなにもない。あれはあの雪の日だけのことで、あの日あの一瞬だけで終わらせなくてはいけなかったのだ。はしゃいでいた自分が死ぬほど恥ずかしく、砕け散ったのは地球ではなく、ぼくの初恋だったというオチがついた。

 それでもぼくはいじましく藤森さんに片想いをしていたのだが、中学に上がったころから藤森さんは雰囲気が変わっていった。お嬢さまっぽい友人と距離を置き、派手に遊ぶグループとよくいるようになった。見た目は変わらず清楚な感じだが、あまり笑わなくなり、やや顎を上げてつまらなそうに廊下を歩いて行く姿は、庶民を寄せつけない王女さまのように見えた。

 昔も今も藤森さんは綺麗だ。けれどぼくはもう、あの雪の日のホームで感じた、今いる場所から根こそぎ引っこ抜かれて別の場所に連れ去られるような衝動を感じない。

 それでも彼女を意識してしまうのは、ぼくがまだ、あの雪の日の藤森さんに恋をしているからだろう。もういない幻想の彼女が、いつまでもぼくの心にインパクトを残し続ける。とはいえ、今の彼女から「つきあって」と言われたら即ありがとうございますと跪くだろう。それくらいには今の彼女も好きでいる。手の届かないアイドルに憧れるように。

 ベンチに座って記憶を辿っていると、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。

[米十キロ、ニーキュッパ限定]

 母親からのいつものお使いLINEで、ぼくはふっと息を吐いて立ち上がった。

 学校でも家でもパシらされる。ぼくの人生とはなんぞや。

 

 今日は比較的平和に終わった。弁当の時間に購買にパシらされた以外は、特に妄想に逃げ込むほどの事案は起きなかった。良き一日であった、と帰り支度をしていたときだ。えーっと井上の大声が聞こえた。ちらっと見ると、井上はスマートフォンの画面を見て顔を歪めていた。

「雪絵、用事あるから今日は無理だって」

「藤森にふられるのなんて慣れてるだろ」

 からかう友人に、うっせーと井上は蹴りを入れる真似をする。

 それを見て、ぼくのアンテナがぴんと立つ。いい予感は滅多に当たらないが、嫌な予感はよく当たる。というか、いいことがありそうなんていうポジティブな予感自体、ほとんどない。ぼくにとって予感とは九割が不吉なものである。速やかに教室を脱出しようとしたのだが、

「えーなーくーん」

 井上に呼び止められた。ああ、やはり予感が当たったか。

 ぼくは井上たちに拉致され、他の生徒が下校するまで待たされた。

「それでは第一回、動くバスケットゴール大会かいさーい」

 放課後の教室に井上の宣言が響く。黒板を背に教卓にあぐらをかき、体育館から持ってきたバスケットボールを人差し指でくるくる回転させている。いつもの上級民グループは前の席に陣取って、井上には構わず好きにおしゃべりをしている。哀れな羊のぼくはといえば、教室の後方で脱げと命じられた制服のシャツを両手で広げて持っている。

「フリースロー、一本目」

 井上がボールを掲げ、教室右側に投げた。ぼくは走っていき、広げたシャツでそのボールを受け止める。つまりゴール役というわけだ。けれどボールをゴールに入れるのではなく、ゴールがボールを追いかける。「一本目、成功」とはしゃぐ井上の元へボールを運んでいく。

「ボール戻すときは駆け足な」

 すぐ二本目と言われ、急いで教室の後方に戻る。二本目もなんとかキャッチして、井上の元へと走って届ける。三本目は遠くに投げるふりで手前に落とされ、受け損ねてしまった。駆け寄る際に椅子の脚に引っかかり、机を巻き込んで無様に転んだ。すごい音に重なって、きゃっと女子の短い声が響く。床に倒れているぼくの目には、女子の上履きが映っている。

「ちょっと、危ないじゃん」

「ご、ごめん」

 顔を上げると、女子がぱっとスカートの裾を押さえた。床に転がっているぼくは、椅子に座っている女子のスカートの中を覗き込む恰好になっていた。

「うわあ、どさくさに紛れて覗かれた」

「の、覗いてない」

 慌てて立ち上がろうとしたとき、あ、と女子から顔を指さされた。なんだと顔に触れると、ぬるりと手のひらが滑った。触れた部分が赤く染まっている。鼻血だ。

「生足ごときで昂ぶってんじゃねえよ」

「江那くん、ラッキースケベじゃん」

 どこがだ。ぼくにとってはアンラッキースケベでしかない。というか、スカートの中なんて見ていない。痛む鼻を押さえているぼくを、残酷な笑い声が包み込んでいく。

 ああ、これはやばい。早くいつものやり方に逃げ込もう。ぼくは羊の皮をかぶった獣。嘲り笑うこいつらの目の前で八重歯は牙に、深爪は凶器の鉤爪に、伸びろ、切り裂け。獣となったぼくは搾取の柵を跳び越え、どこまでも自由に山野を疾走していく。

 けれど今、ぼくの脳は悔しさと羞恥と痛みに萎縮し、自分だけの妄想の世界に逃げ込む余力すらない。じりじりと追い詰められ、こいつら全員死んじまえ、とつい本気の呪いの言葉を吐きそうになる。いけない。こんなときこそユーモアを忘れるな。ユーモアを―。

 なぜだ。なぜこんなときでも、ぼくはぼくを戒めているのだ。

 戒められるべきは、こいつらのほうじゃないか。

 神さまなんてこの世にいない。ユーモアでは世界もぼくも救われない。

 こいつら全員死んでしまえ。

 それが叶わないなら、ぼくがもう死んでしまいたい。

 脳天から爪先まで暗黒に塗り込められそうになったとき、教室のドアが開いた。ぴたりと井上たちの笑い声がやむ。伏せたぼくの視界に、すらりと膝から下が長い足が入ってくる。どくんと心臓が鳴る。おそるおそる上げた視線の先には、藤森さんの姿があった。

「なに、これ」

 ぼくを見て、藤森さんは眉をひそめた。顔は鼻血でべちゃべちゃ、制服のシャツを脱いだTシャツ姿で床に這いつくばっている姿を、よりにもよって藤森さんに見られるなんて。

「あれえ、雪絵どしたの」

 井上は焦ったようにまばたきを繰り返した。

「友達と買い物行くんじゃねえの?」

「なくなったの。井上くんたちはなにしてるの?」

 不快さが前面に出ている問いに、井上はわざとらしく首を左右に振った。

「フリースローごっこしてたら江那が勝手にコケたんだよ。そんで早苗のスカートの中覗いて、興奮して鼻血噴いちゃってさあ。ラッキースケベ炸裂の瞬間だよ」

 さすがに流血現場はバツが悪いのか、ごまかすように井上が大袈裟に笑い、みんなも追随してうなずく。藤森さんはみんなとぼくに等分に視線を注いだ。その目の冷たさに、みんなの笑い声が小さくなっていく。王女の裁定を待つかのように、みんな黙って藤森さんを見ている。

「引くわ」

 一言だった。ぼくか、井上たちか、おそらく両方に言ったのだろう。ぼくはますます死にたくなり、井上たちは曖昧な笑みを浮かべる。気まずい空気の中、井上のスマートフォンが鳴った。

「おーい、なんか地球滅亡するんだって」

 井上が画面を見て言った。友人からLINEで回ってきたらしいそれに、ぼくと藤森さんを除くみんなが飛びついた。興味ではなく、今の気まずさを払うようにはしゃぎだす。

「なになに、地球滅亡って」

「『もうすぐでかい隕石がぶつかって地球やばい』」

 井上がLINEを読み上げる。

「そのネタ何回目だよ。もう全世界が飽きてると思うんだけど」

「大昔にもなんかあったよな。ノストラダムスとかいうの」

「それ知ってる。親が言ってた。恐怖の大王が降ってくるってやつ。昭和だっけ」

「さすがに平成だろ」

 なにもおもしろくないのに、大きな笑い声が響く。笑いは一番簡単な団結であり、団結することで自分たちを正当化しようと必死だ。ぼくと藤森さんだけがその輪から外れている。

 輪から排除されながらも、藤森さんはいっこうに怯まない。最上位に座し、それゆえどの輪にも入れない孤高の王女のように、そんな孤独にも慣れているように、たった一粒だけ遠くに弾かれた宝石のように、いつもと変わらず、やや顎を上げた姿勢で立っている。

 床に膝をついたまま、ぼくは見当ちがいの共感を藤森さんに覚えた。厚い中間層に隔てられた上と下の世界のたった一粒同士として、ぼくたちは今とても近い場所にいる。

「あーあ、笑ったら喉渇いた。なんか飲み行こ」

 井上が言い、みんなが動き出した。

「雪絵も行こ」

 しかし藤森さんは井上を無視し、なぜかぼくのほうにやってきた。

 ―えなくん。

 彼女の口がぼくの名前の形に動いた。藤森さんはポケットからハンカチを出し、それをぼくに与えると、呆然としている全員を置き去りに教室を出ていった。

「えー……、なに今の。どういうこと」

 女子のひとりが不満そうにつぶやいた。

「いじめてたって思われたのかな」

「先生に告げ口されたらどうする」

「あの子冷めてるし、告げ口するタイプじゃなさそう」

「っていうか、俺ら普通に遊んでただけだろ。なあ江那?」

 井上がぼくを見下ろす。圧のある笑顔とは裏腹に、安心の保証を求めるせこさが透けている。こいつらは自分たちの行いがいじめだと理解している。ぼくは今こそ獣の姿になって、こいつらの喉笛にかみつくべきなのだ。けれど羊のぼくは、うん、とうなずいただけだった。

「顔、洗ってから帰れよな」

 井上は藤森さんから与えられたハンカチをちらりと見て、おもしろくなさそうに踵を返した。他の連中も「おまえが勝手にコケたんだからな」、「ちょっとダイエットして運動神経鍛えろよ」と言いながら教室を出ていき、ぼくだけが残された。

 鼻血はもう止まっていて、唇を舐めたら鉄っぽい味が舌に広がった。手のひらについた血は乾いているけれど、迂闊に汚してしまわないよう、指先だけで藤森さんのハンカチをつまみ、大事にポケットにしまった。汚れたシャツを拾い、埃をはたいていると視界が歪んでくる。

 馬鹿め。泣くな。これくらいなんでもない。乱暴に目元を拭い、トイレに行って顔を洗った。鏡に顔を近づけて点検する。痣などはない。よかった。母親にはばれないだろう。

 廊下に出ると、放課後の静けさだけがぼくを待っていた。遠くから運動部のかけ声が聞こえてくる。世界は人であふれているはずなのに、西日の差す朱昏い廊下にはぼくしかいない。ぼくは藤森さんのハンカチを取り出し、鼻にそっと当ててみた。かすかに花の香りがする。

 藤森さんはぼくを助けたわけではなく、自分の矜持を守っただけだろう。

 わたしは卑怯な行いには加担しない、という意志を表明しただけだ。

 ぼくはそれでも救われたし、藤森さんはますます美しい高嶺の花となった。

 白いハンカチには、踊るバレリーナが薄い桃色の糸で刺繍してあり、レースで縁取りがされている。目を閉じ、上品で高級そうなハンカチをくんくんと匂いだ。

 ―藤森さん、東京、一緒に行こうね。

 根こそぎ引っこ抜かれて、今までとはちがう場所へと連れていかれる感覚がよみがえり、少し戸惑った。どうしよう。ぼくは同じ女の子に二度目の恋をしかけている。

<第4回に続く>