マックの隣の人の注文、ヘンなゴミ出し…“考え過ぎのプロ”武田砂鉄氏が、日常に潜む珍事や違和感に鋭い突っ込みを入れる!『べつに怒ってない』

文芸・カルチャー

公開日:2022/9/14

べつに怒ってない
べつに怒ってない』(武田砂鉄/筑摩書房)

「考え過ぎのプロが紡ぐ、不毛で豊かなエッセイ123本」――気鋭のライター・武田砂鉄氏による『べつに怒ってない』(筑摩書房)の帯にはそんな惹句が躍っている。考え過ぎ、というのはまったくもってその通りで、著者の目のつけどころと想像力の豊かさに唸らされる一冊である。

 晴天なのに傘を持っている人の事情を知りたくなる。扇風機の前で声を出すというのは、いつ、誰に教わったのか気になってしょうがない。マクドナルドで隣の人の注文が独特過ぎて詮索してしまう。実際に仔細を知ろうとアクションを起こすことはないが、著者の頭の中は猛スピードでフル回転しているのがありありと分かる。

 発見と想像と分析。武田氏のエッセイの要諦を成すのはこのみっつだろう。例えば、隣人のゴミ出しの話。朝、仕事場に向かう際、ゴミ捨て場にフタなしの土鍋にぬいぐるみが乗っているのを見かける。帰りがけに再び見るとぬいぐるみだけが回収されて、土鍋は残っている。

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 その持ち主は、土鍋までは回収してくれない日だと知りながら、前日から土鍋を置いていたのだろうかと著者は想像する。きっとぬいぐるみを地べたに直に置くのが忍びなかったからそうしたのだ、と、分析するのだ。確かに奇妙ではあるが、むしろゴミの変遷を逐一観測する著者の想像や分析に驚嘆する。

 あるいは、カフェでのひとコマ。忙しくパソコンのキーを打っている人のモニタを覗くと、表の幅をいじっているだけだったのを発見してしまう。そんな風に仕事が忙しいアピールを自慢してくるのは、普段それほど忙しくないからなのかもしれない、とまたもや著者は思案を巡らせる。

 飲食店で「ご飯を半分で」と注文しても、いつも通常の6~7割のものが出てくることに当惑するくだりには納得した。ご飯をきっちり半分で出してくれないことについて、執拗に書き立てるのである。そんな風に、著者の思考の軌跡を追体験できるのも、本書を読む悦楽のひとつだ。

 本書について、「読んでもらった人に何の作用も与えなくていい」と著者はインタビューで答えている。だがむしろ、自分は日常に潜む珍事をみすみす見逃していたのか、と嘆息をもらってしまった。再評価すらされていないB級カルト映画でも、難解な文脈の上に成り立つ現代美術でも、対象を面白がれている時点で筆者はその人が羨ましくなる。面白いと思えることはそれだけでひとつの立派な才能だと思うからだ。

 電車の中で皆がスマートフォンを覗いている間にも、著者の脳内では様々な想いが乱反射している。これっていつから普通になったの? こういう会話っていつ始まったんだっけ? このルール、以前からあった? 等々、著者の思考はいつだってせわしない。既に定着してしまった慣例や常識について、「いや、自分はこうだけど」と突っ込み続けるのを読むと、何度も頷いてしまう。

 収拾しそうな出来事を混ぜ返したり、まったく異なるアングルから物事を見直してみたり。その観察眼と鋭利な筆致にコラムニストの故・ナンシー関を連想する人もいると思う。実際、武田氏は故・ナンシー関氏のファンだったそうだし、共通点もあると言えばある。

 ただ、それを言うならば、ナンシー関氏と生前から交流があり、先日逝去したコラムニスト・小田嶋隆氏の存在も無視できなくなってくる。日常で感じる些細な違和感をスルーせず、軽やかなタッチで綴ってきたという意味で、ナンシー関氏、小田嶋隆氏、武田砂鉄氏は同じ海から塩をとっていた(る)。筆者にはそう思えて仕方がない。

文=土佐有明

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