恋バナ好きのライター・吉田大助が熱弁!令和日本の恋愛小説が熱い!

文芸・カルチャー

更新日:2022/11/8

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』12月号からの転載になります。

11月5日に発売した『ダ・ヴィンチ』12月号では「大人の恋バナ!」を特集。現代における恋愛、また恋愛を描く物語の意義を問うていく濃密な内容でお送りしています。本特集から、恋バナ好きライター吉田大助さんの寄稿を特別転載!令和も恋愛小説の熱き炎は燃えているか――!?

 恋愛小説とは、「恋愛とは何か、人生にとってどんな価値があるのか?」を問うていくもの。

 一般文芸において、恋愛小説の存在感が低くなって久しい。現実社会において、恋愛そのものの存在感が低下したからだ。現代人が恋愛しない/できない理由について世の中から漏れ聞こえてくる声を拾うならば、恋愛はコスパが悪い。面倒臭い。もろい。他の人間関係があればいい。今、一般文芸において恋愛小説の代わりに存在感を高めているのは、従来とは異なる新しい家族的関係の可能性を探る、広義の家族小説だ。

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 近年、脈のない相手に好意を告白する行為が「告ハラ(告白ハラスメント)」と呼ばれるようになったが、恋愛の加害性も問題となっている。大前粟生は『きみだからさびしい』(令和4年2月刊/文藝春秋)において、異性に片思い中の主人公にこう語らせた。「なんていうたらええんかな、今の時代、恋愛っていうのが、そういう目線で誰かが見るっていうのが、その人を傷つけてしまうかもしれへんじゃないですか」。令和日本における恋愛の難しさは、恋愛小説の難しさに直結している。

 しかし、もちろん、恋愛小説の火は消えていない。注目すべきは、令和突入前後から中堅〜ベテラン作家が次々と、男女間のストレートなラブストーリーを発表している点だ。本特集に登場した小説家で言えば、凪良ゆう、窪美澄、島本理生、石田衣良。さらに、『ミトンとふびん』(令和3年12月刊、第58回谷崎潤一郎賞受賞/新潮社)の吉本ばなな、『自転しながら公転する』(令和2年9月刊、第27回島清恋愛文学賞/新潮社)の山本文緒、『余命一年、男をかう』(令和3年7月刊、第28回島清恋愛文学賞/講談社)の吉川トリコは、最新の恋愛小説が著者にとって新たな代表作となっている。ジェンダーやセクシャリティへの理解が深まり恋愛も多様化した今の時代、男女間のストレートなラブストーリーを描くことは古臭いとすら思われかねない選択だが、どの作品も鮮烈で発見に満ちている。いついかなる時代も「普通」を堀り下げることは、「普遍」へと至るルートだ。

 上記の潮流に連なる、若手小説家たちの作品も魅力に溢れている。社会学者でもある古市憲寿の『ヒノマル』(令和4年2月刊/文藝春秋)は、「恋愛禁止」状態にあった第二次大戦下と、他者との接触はリスクであるからと「恋愛禁止」をアナウンスされたコロナ禍の現実が重ね合わされている。リスクがあるからこそ、ロマンが生まれる。そして、恋愛は人を変える。主人公は当初、生粋の愛国少年なのだが、歴史学者を父に持つ聡明な少女と出会い会話することで、ガチガチに凝り固まった思考が少しずつ溶解していく。

 SF・ミステリーのジャンルで活躍する斜線堂有紀の恋愛小説集『愛じゃないならこれは何』(令和3年12月刊/集英社)は、特に第4編「健康で文化的な最低限度の恋愛」から強い印象を受け取った。仕事ができる27歳の会社員女性が、中途採用で入ってきた2歳年下の男性に一目惚れ。知れば知るほど、相手と自分との間に価値観の違いがあると痛感する。ところがそこで、高瀬隼子の『おいしいごはんが食べられますように』とも共鳴する、人間としては嫌いなのに恋愛対象としては好きという地獄の釜の蓋が開く。相手の価値観が変わらないならば、自分の価値観を変えるしかない。斜線堂の主人公が直面するのは、「テセウスの船」のパラドックスだ。自己を構成する要素が一つ一つ別物となり全てが置き換えられた時、そこに現れる自分は過去の自分と同じだと言えるのか?

 実写映画化もされたカツセマサヒコのデビュー作『明け方の若者たち』(令和2年6月刊/幻冬舎)は、東京23区屈指の絵にならない街・明大前で、就職を間近に控えた大学生の男の子が、年上の大学院生の女性に恋をする。一目惚れは、一瞬ではできない。一瞬の判断に思えても、その裏には過去の恋愛経験やそれまでの人生で培ってきた価値観が総動員されている──という真理は、彼女の側にも適応されている。恋心ゆえに客観的で冷静な意思判断が停止し見たくない現実を見なくなる「正常性バイアス」に捉われた主人公の語りに仕掛けられたサプライズは、至極納得のいくものだった。

 実のところ、ここまでに挙げてきた恋愛小説の多くは、恋愛をあまりいいものとしては描いていない。傷付けられ、自分を変えられ、その後の人生を決定付けるものとして表現されている。コスパが悪い。面倒臭い。もろい。他の人間関係があればいい。加害的だ。そのことに登場人物たちは薄々、いや、大々的に勘付きながらも恋愛をしている。恋愛小説とは、他人と他人がくっつく(そして別れる)様子を面白おかしく追いかけていくものではない。当事者たちの言動を微に入り細をうがって観察し言語化しながら、「恋愛とは何か、人生にとってどんな価値があるのか?」を問うていくものだ。おそらく恋愛には他では代替できない──それでいて他の人間関係を照射する「何か」があるのだ。その「何か」とは、何か。

 言葉のスペシャリストである小説家の仕事は、世の中にすでに溢れている言葉をなぞるように書くことではない。世の中に無い言葉、足りていない言葉を小説内に溶け込ませ、それらの言葉の流通量を増やすことにある。流通量が増えれば、それらの言葉と出合う機会が増える。考える機会が増える。恋愛が、その意義がなかなか真正面から語られなくなった時代だからこそ、恋愛小説の価値は日に日に高まっている。

 もっと恋愛小説を!

 そう叫んで本稿を終えたい。

吉田大助
よしだ・だいすけ●1977年、埼玉県生まれ。本誌をはじめ雑誌媒体を中心に書評や作家インタビューを手掛ける。恋愛小説に関する最新の原稿は、石田衣良『清く貧しく美しく』(新潮文庫)の巻末解説。恋愛リアリティ番組『TERRACE HOUSE』に友情出演した経験アリ。