『ドラキュラ』『エクソシスト』…フィクションなのに、なぜ恐怖を感じる? これからの見方が変わる、ホラーの哲学

文芸・カルチャー

公開日:2023/3/31

ホラーの哲学
ホラーの哲学』(ノエル・キャロル:著、高田敦史:訳/フィルムアート社)

 ホラー小説、ホラー映画…人気のジャンルであるホラー。「ホラー=恐怖」は普通に考えれば避けたいもの、遠ざけたいものながら、「怖いもの見たさ」という言葉があるように、人はそこに魅力を感じてしまう。とくに長きにわたり小説や映画などフィクション作品は人々を怖がらせ、読者や観客もそれらにより怖さを求めている。

 ゾンビ、クリーチャー、宇宙人、幽霊、殺人鬼…ホラー作品に登場する異形なものたちに魅せられて自ら恐怖を浴びに行く。その感情とはなんなのか? ノエル・キャロル著『ホラーの哲学』(高田敦史:訳/フィルムアート社)はそうしたホラーの魅力と人々の受容の不思議を考察した一冊だ。

 ホラー小説や映画を怖がるとき、なぜ作り物(=フィクション)だと知りながらも怖いと感じるのか? 言い換えれば現実に存在しないと知っているクリーチャーや怪現象をなぜ恐れるのか? 恐怖を感じることが不快であるにもかかわらず、なぜ興味を持ってしまうのか? 本書は当たり前にホラー作品を楽しんできた者にそんな問いを投げかけ、考察する。

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 例えば、「フィクションなのになぜ恐怖を感じるのか?」というパラドックスでは、3つの構造から考える。

 まず、舞台や映画の迫真性や映画技法に圧倒されるあまり本物だと錯覚してしまう「フィクション錯覚説」。次に、物語の人物が恐怖を感じているのだから恐怖を感じるフリをしているという「フィクション反応のフリ説」。3つ目が「フィクションへの感情反応の思考説」だ。例えば、断崖絶壁に立っているものの、足場がしっかりしているにもかかわらず“崖から落ちる”という思考をかすかに抱くことで恐怖する、つまり現実に起こる可能性が低く、また虚構であっても、その思考自体が恐怖や嫌悪を引き起こすという説である。

 当たり前すぎて深く考えていなかったこのフィクションのパラドックスを知ったあとでは自らがホラーを楽しもうとする際に、なぜ自分が怖がっているのかを考えてしまうから面白い。

 別のパラドックスに「なぜホラーを求めるか?」がある。ホラーに必ず拒否感を与えるものが出てくるとすれば、鑑賞者はどうしてホラーに惹かれるのか? いうなればこのホラーというジャンルを人々が求める動機はなんなのか? である。ここで本書の大きな主題である考察までも記することはしないが、ホラー小説や映画が好きな人にとって、このジャンルに惹かれる正体について言語化されることにカタルシスを得られるかもしれない。

 本書は1990年に書かれたホラーに関する哲学を考察した本であるが、映画『エクソシスト』や『エイリアン』、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』といったホラー小説の古典、そしてH・P・ラヴクラフトなど、様々なホラー作品が引用されておりホラーファンには読みやすく、またホラー作品の考察や評論をするにあたって参考となる記述も多い。

 例えばホラー作品とイデオロギーの関係では、時代や地域、個別の作品のなかで政治的、人種差別、性差別、反共主義、外国人嫌悪といったイデオロギーを内包するホラー作品が登場しているものの、多くのホラー作品は政治的観点からは非常にぼんやりとしていて、いかなる特定のイデオロギー的テーマにも結びつけることはできないとする。一方でホラーが非日常の混乱を恐怖とし、日常と秩序の回復が主題となっているという指摘には頷くばかりである。

 また、古典的なモンスターを復活させたスティーブン・キングの『IT』や、50年代のホラーコミックへのオマージュであるキングとジョージ・A・ロメロの映画『クリープショー』などを例に、ホラーが自ジャンルの歴史を参照しているという指摘も見逃せない。現在の日本の「Jホラー」や海外のホラー作品など、見渡せば過去作品を参照していない作品を探すほうが大変である。

 ホラーを俯瞰して考察する本書は、ホラー好きだけでなく、ホラージャンルの創作をしている人にもおススメの一冊である。

文=すずきたけし

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