高校の制服が買えず、父の暴力を日常的に見せられる――貧困からくる体験格差を描いた自叙伝『死にそうだけど生きてます』

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/18

死にそうだけど生きてます
死にそうだけど生きてます』(ヒオカ/CCCメディアハウス)

 個室がある環境で暮らせる。仕事に必要なパソコンを躊躇いなく買える。病気の時に病院へ行き、適切な医療を受けられる。体調が戻るまで、安心して休むことができる。

 これらすべてを「当たり前」のものとして生活する人がいる一方、これらすべてが手に入らず、喘ぎ声を上げている人たちがいる。貧富の格差は、目に見えにくい。痣や出血、骨折のように、一目で痛みが可視化されるものではない。だから、往々にして「ないもの」にされる。そんな現状に警鐘を鳴らす、一人の書き手がいる。

「私が普通と違った50のこと――貧困とは、選択肢が持てないということ」と題したnoteがバズったことを機にライターへの道を歩み出した、ヒオカ氏による自叙伝『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)が、2022年9月に刊行された。本書では、コロナ禍によるパンデミックの記録と共に、貧困からくる体験格差に学生時代から苦しみ続けた著者のリアルが赤裸々に描かれている。

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 著者は、とある過疎地で生まれた。病を抱え思うように働けない父は、パート勤めの母に対し、日常的に酷い暴力を振るっていた。慢性的な貧困に加え、父から母への暴力を連日見せつけられる心理的虐待もあり、著者の心は常に疲弊していた。そこに重なる、団地暮らしの子どもに対する周囲の大人による差別と、同級生からの理不尽ないじめ。10代の著者にとって、この世界はとかく生きづらく、苦しいものであった。

 高校の制服が買えず、塾や習い事に行かせてもらえない。部活も禁止され、大学受験は国公立1本で浪人の選択肢はない。自宅は勉強に集中できる環境ではなく、図書館で受験勉強をする毎日。著者は、周りの同級生に比べて、圧倒的に選択肢が少なかった。それでも、強い意志を持ち、必死にもがき続けた著者は、現役で国立大合格を果たす。

 大抵の場合、そのような結果を出した人は、「だからあなたもやればできる」と言う。だが、著者は違う。

“スタートラインも違えば、背負っているものも違う。自分が乗り越えられたからと言って、似た境遇の人が乗り越えられるとは限らない。”

 本書では、「生存者バイアス」の危険性についても詳しく触れている。生存者バイアスは、「生き残った者」の話を基準に物事を考えるがゆえに、「生き残れなかった者」を取りこぼしてしまう。苦しんでいる人の悩みを、「自己責任」で済ませるのは容易い。だが、それを言う人は自覚しているだろうか。「努力」だけでは越えられない壁の向こう側に、自分が立っている強者性を。

“一部には実際に逆境を糧にしていく人たちがいるのも事実である。
しかし、私は思うのだ。“一部”の逆転ストーリーを持ち出して「そこにある格差」を無効化するのは間違っている。”

 ごく一部の人間が「大丈夫」だったとしても、それは格差を埋めなくていい理由にはならない。サクセスストーリーがいけないと言っているのではない。「努力さえすれば誰でも乗り越えられる」と簡単にうたう世の中に、著者は警鐘を鳴らしているのだ。

 コロナ禍において、「仕事を休む」という選択肢がある人ばかりではない。明日の食費を心配しなければならない人は、「危険とわかっていても働く」以外の選択肢を持てない。

 病気になった際、迷わず病院に行けるのは、「治療費を払える」上に、「休んだ分の給料が減っても、家賃を払える」人だ。このどちらかが不可能な人の多くは、倒れるまで働く。休むのが怖いのだ。払えない治療費を請求されることも、ただでさえ少ない手取りを減らされることも、恐怖でしかない。

 社会から取りこぼされた人たちを救うために必要なのは、「思いやり」などというフワッとしたものではなく、社会制度そのものの抜本的な改革と揺るぎない知識である。臭いものに蓋をしても、課題は解決しない。著者は、そのことを痛いほど知っていて、だからこそ本書を書いたのだろう。

 もう誰にも、自分と同じような思いをしてほしくない。

 その一心で書いていることが、端々から伝わってくる。過酷な生い立ちの著者の半生を、一過性で消費したくない。読んで、知って、その先の未来につなげるためにはどうしたらいいのか。それを本気で考え、実行していくことこそが、大人の責務であると私は思う。

文=碧月はる

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