真木よう子、永山瑛太らで映画化『アンダーカレント』。後頭部から湯船に落ちるシーンが印象的な原作をレビュー

マンガ

更新日:2023/10/30

アンダーカレント
アンダーカレント』(豊田徹也/講談社)

 真木よう子、井浦新、リリー・フランキー、永山瑛太など名優揃いで、上映が始まったばかりの映画『アンダーカレント』。原作となった同タイトルのマンガ『アンダーカレント』(豊田徹也/講談社)は、2005年に出版された作品です。映画化の経緯は色々とあるのだろうと予想しますが、本記事では、まだスマホが世に普及する前だった約20年前に描かれた原作に、どのような「現代に通じる点」があるのかを中心にご紹介したいと思います。

 主人公は、実家の銭湯を継いだ若い女性・かなえ。一緒に銭湯を経営していた夫が失踪し、しばらく休業していたものの、営業を再開するところから物語が始まります。銭湯組合からの紹介で銭湯の手伝いをすることになった謎の男性・堀や、友人づてで紹介してもらった探偵・山崎とやりとりをしていくうちに、かなえは「自分は夫のことを全く知らなかったのではないか」という疑念を抱くようになり、「変化の旅」が始まります。

 タイトルの“undercurrent”という英単語は「心の底流」という意味で、表紙は、「史上最も美しいピアノとギターのデュオ・アルバム」と評されることも多い有名なジャズアルバム『undercurrent』のジャケットを模したと思われるデザインになっています。本作の序盤で最も重要なシーンの一つで、誰もいない銭湯の湯船の中にかなえが自ら後頭部から落ちて沈んでいく、現実と非現実が混ざったようなシーンがあります。映画版の予告編や宣材写真でも、この場面はとても印象的に使われています。

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アンダーカレント

アンダーカレント

アンダーカレント

「後頭部から水に落ちる」という描写は、何を意味しているのでしょうか。後頭部というのは、そこそこ頑張らないと自分だけでは見ることができません。他者の力を借りて三面鏡でもかまえてもらえれば、割とすんなりと見ることができます。その後頭部から、かたい固体ではなく柔らかい液体に落ちていくということは、「自分が知らない自分」を知りたいという欲望と、「自分がわからないこと」をありのままに受け止めようとする意志が同居しているような状態に筆者は思えます。実際、「赤の他人」として登場する探偵・山崎は、出会って間もないかなえにこのように語りかけます。

結局ね
わからないことを
あれこれ考えても
しょうがないんですよ
わからないことは
わからないし
わかることはそのうち
わかるでしょう

 自分で自分のことすらわからない。なのに、人生の多くの時間を共にするとはいえ、家族やパートナーのことがどれだけわかるだろうか? こうした疑問は、時代に左右されない普遍なものかもしれません。しかし、この20年で情報化が劇的に進み、SNSやネット上に「あるべき姿」「正解」の情報が溢れて、そこにたどり着けない悲しみ・孤独が増殖していったことには、読者の皆様も同意いただけるのではと思います。

 その「情報の海」で溺れないためには、一体どうすればいいのか? 失踪した夫が原作のある場面で口にする言葉は、映画でもきっと重要な一言となっており、2005年と2023年では最も意味合いが異なるセリフ(制作陣の解釈が試されるシーン)のひとつになっているのではと思います。

人は本当のことより心地いいウソのほうが好きなんだよ
皆 本当のことなんか知りたくないんだ
騙されたがっているんだよ

「ウソ」というのは、「物語」「フィクション」とも言いかえることができるかもしれません。原作のマンガも、映画も、いわばウソで架空の物語です。でも、人の心を救うことができる。「心の底流」に向き合う意義がより増している現代にこそ、本作は響く物語なのだと感じる方も多いはずの一作です。

文=神保慶政

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