『ビューティフル・ドリーマー』は何がすごかったのか? 原作『うる星やつら』ファンが見た公開当時の反響や「押井守の芸術性」【『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』レビュー】

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公開日:2024/2/15

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 (少年サンデーコミックスアニメ版)

『うる星やつら』の新作アニメの放送が始まってから、1年以上の月日が経った。今年1月からは2期の放送も始まり、1981年から1986年まで放送された以前の連続アニメと見比べる楽しさが続いている。以前のアニメは、テレビのみならず映画も上映された。その映画の中で、今や伝説と呼ばれるほど観客に衝撃を与えたのが『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だ。

『うる星やつら』は、軽快なラブコメディである。漫画、そして漫画を原作としたアニメは、惚れっぽい性格の高校生・あたると、あたるに恋する宇宙人のラムをたくさんの個性豊かな登場人物が取り囲み、どのエピソードも視聴者が日常を忘れて楽しめるドタバタ劇だ。

 だからこそ1984年に公開された『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を、多くの『うる星やつら』ファンは驚きと戸惑いをもって受け止めた。この映画は、『うる星やつら』のギャグテイストをほぼ漂わせず、時間が静止した幻想的な世界観のもとに織りなされていたからである。この映画では、『うる星やつら』の学園祭の準備で忙しいレギュラーキャラクターたちの時間がループしている。電車に乗っても、乗車時と同じ駅に着き、彼らは同じ日に同じ場所で物語を繰り返す。まるで夢を見ているような感覚に見ている側も巻き込まれ、登場人物もじょじょに自分たちは同じ日常を繰り返しているのではないかと気づき始める。

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 1984年は筆者が生まれた年でもあったので、実際に視聴したのは公開後10年ほど経ってからなのだが、子どもなりに自分が今生きている瞬間は永遠ではないのだと感じた。登場人物の混乱する様子に、私もあわてさせられた記憶がある。振り返ると、視聴者の多くが、登場人物として、映画の中に佇んでいるように錯覚したのではないだろうか。

 当時、アニメ『うる星やつら』の監督を務めていた押井守さんは、この映画をどうして連続アニメとはテイストの異なるものにしたのだろう。いつものドタバタコメディ『うる星やつら』を愛していたファンの中には、違和感を露わにしたり、「どうして世界観まで変えたのか」と怒りを覚えたりする人もいたという。「監督が原作を無視した」「原作者の高橋留美子さんはどう感じたのだろう」……一世を風靡した漫画、そしてアニメだからこそ、議論は続いた。一方で、この映画に衝撃を受けて、アニメが芸術作品になりうる可能性を見出した観客もいたようだ。『鋼の錬金術師』『機動戦士ガンダム00』などを生み出したアニメ監督・音楽クリエイターの水島精二さん、『踊る大捜査線』シリーズの監督である本広克行さんなど、影響を受けたと語るクリエイターも多い。

 本作は終盤に近付くと、主人公であるあたるが、幻想的な世界の中で浮遊するシーンがある。そこで彼は「夢と現実の境目はどこにあるのか」「どちらにいる自分が本物なのか」という問いを投げかけられる。自分自身とは何か。最初に見た時、子どもだった私は、まだ「アイデンティティ」という言葉すら知らなかったが、「今、私はもしかすると夢の中にいるのかもしれない」とあたるを見ながら感じた。この時点で本作はエンターテインメントの枠を超えたと言えるだろう。21世紀以降、アニメは大人が見てもおかしくないものになったが、1984年は子どものほうが見ていたのではないだろうか。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は大人にも衝撃を与える映画として伝説となった。

 やがて結末を迎えて、物語は真相が明らかになる。そこに至るまでは不思議で複雑で、10歳の子どもだった私には理解できないシーンもあった。半世紀近くの時を経て大人になった私が再び見てみると、幻想に覆われつつも、この映画はあたるの精神的な成長の比喩だったのではないかと感じた。ネタバレになるのでクライマックスの詳細には触れないが、本作からはエンターテインメントに芸術性を取り入れようとする押井守監督の個性も感じられる。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は動画配信サイトで見ることができる。新作アニメ『うる星やつら』と比べてみるとより楽しさが増すはずだ。

文=若林理央

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