「産みたくない」「産んだけど色々ある」「産みたいけど産めない」――妊娠、出産という“女性の選択”を問いかける

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/3

私、産まなくていいですか?"
私、産まなくていいですか?』(甘糟りり子/講談社)

 少子化の現代社会で「子どもがほしくない」と言うことは、いささか勇気がいることかもしれません。『私、産まなくていいですか?』(甘糟りり子/講談社)は、「産まない」「産みたくない」という否定形の表現を、肯定形、あるいは二項対立ではない形で表せないかという模索を3つの話で行っている作品です。

 1話目は「独身夫婦」。鎌倉でウェディングプランナーとして働く美春は39歳。夫の朋希が40歳の誕生日を迎えます。子どもはいらないと結婚前に確認し合ったはずなのに、朋希は子どもがいてもいいのではないかと考え始め、その変化に美春は動揺します。妹夫婦は不妊治療中で、親が病気になったときに「孫の顔を見せられていない」という話題になり、美春の苛立ちは募るばかり……。

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子供が嫌いなわけではない。でも、好きでもない。かわいいいと思う子もいれば、どうしても関心を持てない子だっている。別に関心を持つ必要もないのに、そのことを後ろめたく感じてしまう自分が腹立たしい。自分が産んで育てるというイメージがわかないし、興味がない。それをいってもわかってくれる人は少なかった。

 2話目の「拡張家族」は「産んでいる」主人公です。もちろん、ストーリー単体では主人公の人生を追っているのですが、もう一つ俯瞰的な視点で、他のエピソードとの対比がこの2話から始まります。実際、3つの話の主人公たちは鎌倉にそれぞれの理由で引き寄せられ、それぞれの人生がゆるやかに交錯します。

 真子と久郎は結婚10年で小学4年生の息子・海斗がいる。真子の年収は夫よりも高く、家事は久郎の父が亡くなったことをきっかけに、隣室に引っ越してきた母に助けてもらっている。ある日、久郎が別れを切り出し離婚となるが、海斗は意外にもあまりショックを受けずにむしろ理解を示す。そして、真子はひょんな縁から友人カップルが所有する鎌倉の築90年の古民家に義母と越し、家族のように住まうようになる……。

「家族」の一般的定義を思いっきり広げた後の、3話目のタイトルは「海外受精」。主人公は43歳の花葉、37歳の幸洋という再婚同士のカップルです。

 失恋したばかりのときに同じバーに居合わせた幸洋のことを花葉は「魂の恩人」と呼び、トントン拍子で結婚することになる。43歳という年齢から考えて、「子どもを産んであげられない」と花葉は自覚している。そして、第一話の主人公カップルが過去に行ったであろう「意思確認」が行われる……。

「子供のことはどっちでもいい。いてもいなくても」
「それ、私に気を使ってない? 本当は欲しいんじゃないの?」
「そんなことないよ。それに、僕たちの家族が欲しいなら、養子縁組っていう方法だってあるじゃない。二人で働いて今の収入なら、経済的には大丈夫なんじゃないかな。最近は前より条件がきびしくないそうだよ」
「そんなことまで考えてるんだ。やっぱり欲しいんだね」

 卵巣予備能検査、精液検査を行うと「能力」を試されているように思われる。「できなかった」「産めなかった」ときに、自分が無能であるように思えてしまう。「子どもを産むこと」が自分の力だけではどうにもならないゆえの衝突に苦しんでいた花葉たちは、技術発展がもたらす「新たな選択肢」を提示されます。

 実際、産むことにしたのか、できたのかは本書を読んで確認してもらうとして、まとめると本書はこのような順番で書かれています。

1 産みたくない
2 産んだけど色々ある
3 産みたいけど産めない

 そして、本書タイトルは『私、産まなくていいですか』です。これはつまり、人間というのは多面的な存在であるということを示唆しているのではないかと感じました。「産みたくない」と言っている人は心から100%そう思っていたとしても、もちろん「産む」ということをいくらか考えた上でそう言っているということです。帯には、この3つのストーリーを代表して「欲しくない。ただそれだけ」と、1話目の美春の声が書いてありますが、3話まとめての意味としてぜひ考えを巡らせてもらいたいと思います。

文=神保慶政

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