身近な人に「死なれちゃった人」が書くエッセイ集。「情けない人生でした」と書き置いて自殺した後輩にどう向き合う?

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/2

死なれちゃったあとで"
死なれちゃったあとで』(中央公論新社)

 死なれちゃったって人、どれくらいいるだろう。

 挙手。オーケー、ありがとう。私も「死なれちゃった」側の人間だ。事故死、病死、老衰、自死。人の死に方とは、こんなにも様々だ。前田隆弘『死なれちゃったあとで』(中央公論新社)は、「死なれちゃった」人間である前田が、「死んじゃった人間たちと、そのあと」を書いたエッセイ集である。

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「情けない人生でした」そう書き残して自死した前田の後輩D。前田が綴る彼の人生の片鱗に、Dは確実に、計画的に、自死に向かっていたのではないかと考えてしまう。それは、おそらく私も同じような「死なれちゃった」経験があるからだ。けれど、私が自分の経験を書いても前田のような綴り方はできないだろう。人の死に直面した前田の文章は、どこか他人事のようなのだ。溺死した父、事故死した自転車のおばさん、更新が止まったままのSNSアカウント……。その死を知って驚愕し、葬儀が進むことで喪失感を得て、彼らがどのように生きて死んだかを追って困惑する。それらがなんだかふわふわと、この世のものではないかのように進む。

 巻末の対談「岩井秀人×前田隆弘 死なれちゃった経験を語ること」には、このような観客の発言がある。

Eさん わたしは、経験値の差を埋めるのが“入口としてのライトさ”かなと思いました。テーマが死だとしても、最初にライトに入ることで、聞く人も直球じゃなくふわふわと受け取れる。経験の差を緩和する優しさが、語りのライトさにはある。

 どんなに凄惨な死に方であっても、どんなにその死に悲しんでいても、前田の書き振りは「ライト」である。実際に起きたことなんだよな、と思う。創作だったりじゃ、ないんだよな。巻頭には「実際に経験した死別について書きました。」とある。わざわざ書いておかなきゃいけないくらい、丁寧で、読みやすく、優しいのだ。

 以下は、冒頭に紹介した前田の後輩Dの死を告げられたシーンである。

 大阪での大学時代の後輩Dの彼女、Nちゃん(筆者注:Nからの電話)だった。
「おっ、久しぶりやん、どしたん、元気しとった?」
「あの、Dちゃんが……死にました」
「えっ」
「………」
「え?」
「自殺しました」
「どういうこと」
「まだよくわからないけど、首吊りだと思います、たぶん」
「でも、なんで」
「私が原因なんです」

 そこからDの死の経緯が語られる。そして、Dがどのような人間だったのか、どのような生活を送り、死へと向かっていったのかが解き明かされる。ミステリーのように。けれど、現実だ。

 誰にだって死は訪れる。友人知人、恋人、配偶者、ただすれ違っただけの人。その死を受け止めるとき、もしくは私の死を誰かが知ったとき、『死なれちゃったあとで』のように、優しくライトに語ることができたら、語ってもらえるだけの生をまっとうできたら、と願う。

文=高松霞

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