マイケル・ジャクソン来日の裏側…伝説のTVディレクターが初めて語る

エンタメ

2017/10/15

『マイケル・ジャクソン来日秘話 テレビ屋の友情が生んだ20世紀最大規模のショービジネス』(白井荘也/DU BOOKS)

 1987年9月12日、後楽園球場。20世紀最大のエンターテイナー、マイケル・ジャクソンはそこにいた。『スリラー』から4年ぶりとなるアルバム『バッド』を引っさげて、ワールドツアーを日本からスタートさせたのだ。日本初となったマイケルのショウは日本テレビが独占契約し、日本に莫大な経済効果を生み出した。

 いかにして歴史的スーパースターの日本公演は実現したのか? 『マイケル・ジャクソン来日秘話 テレビ屋の友情が生んだ20世紀最大規模のショービジネス』(白井荘也/DU BOOKS)は、日本公演のキーマンとなった著者自ら当時を振り返る、一部始終の記録である。パフォーマンスはもちろん、交渉内容さえもワールドクラスだったマイケル側スタッフと渡り合い、日本のショウビジネス界に発展をもたらした日本人の姿は、現代を生きる人々にも眩しく映るだろう。

 1935年生まれの著者は日本テレビで『茶の間リズム』『ゆく年くる年』(民放時代)などの人気番組を手がけた敏腕ディレクターだった。新人時代のドリフターズやジャニーズを育て、スーパースターにまで押し上げた張本人である。また、音楽への造詣も深く、1966年のビートルズ来日公演ではテレビ放映のフロアディレクターを務めていた。

 そんな輝かしいキャリアを誇るテレビマンだっただけに、著者の人脈は広かった。そして、意外な交友関係がマイケル・ジャクソン来日へとつながっていく。音楽バラエティで起用したジミー・オズモンド(元オズモンド・ブラザーズ)がマイケルの幼なじみで、マイケルから来日公演の相談を受けたのだ。ジミーは白井氏を紹介し、イベント会社を通じて正式に日本テレビと白井氏にマイケル・ジャクソン招聘の依頼が持ちかけられる。

 しかし、相手は全盛期のマイケル・ジャクソンである。交渉は一筋縄ではいかない。開催場所やグッズ販売、テレビ放映にいたるまで細かく契約のすり合わせが続いていく。また、ロサンゼルスでは25社ものライバルの存在も明らかになる。百戦錬磨のプロモーターたちがマイケル・ジャクソンと仕事をする権利を得ようと、金に糸目をつけずにひしめきあっていた。

 日本テレビが最終的に契約を結べたのは、著者をはじめとするスタッフたちの誠意がマイケルの要望に応えていたからだ。マイケルが絶大な信頼を寄せるジミーの後押しも大きかった。それでも、日本テレビの苦労は契約締結後からだった。日本のショウビジネスが目にしたこともないような大金がやりとりされ、利益率の小数点以下が変わるだけでも一大事である。契約交渉中、滞在していたホテルにも脅迫電話がかかってくる。もっとも、電話の主はマイケル側のスタッフだった可能性も高いという。アメリカでは、大きな契約になると相手の本気度を確かめるために、偽の脅迫電話をかける風習があったのだ。アメリカ流の洗礼を浴びながらも、徐々に公演内容が具体的に定まっていく。

 著者たちがマイケル招聘にこだわったのはなぜか。日本テレビがエルビス・プレスリー、ビートルズに続いて世界的スターの放送権を獲得したかったこともある。しかし、何よりも「日本のエンターテインメント界の質向上」が著者の本当の思いだった。日本のエンターテインメントはアメリカを参考にしながら、戦後、大きく発展を遂げてきた。しかし、「土壌」ともいうべき、本場のリズムを吸収するまでにはいたっていないと著者は考えていた。マイケル・ジャクソンという本物中の本物を生で目撃すれば、日本は変わる―。著者にとっては利益以上に、エンターテインメントへの愛が大切だったのだ。

 その後、数々の苦難を乗り越えて実現したマイケル初の日本公演は、200名以上の芸能関係者が鑑賞し、感銘を受けたという。その中には、日本のエンターテインメントの中心として数多くの人気グループを輩出するジャニー喜多川氏もいた。マイケルは2009年、早すぎる死を迎えたが、彼の影響力はなおとどまることを知らない。そして、全盛期のマイケルを日本に呼んだ人間の功績もはかり知れないのである。

文=石塚就一