相容れない“フェミニスト”と“オタク” 。「性の問題」を2つの立場から考えたら…

社会

公開日:2018/1/26

『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』(香山リカ、北原みのり/イースト・プレス)

 フェミニストとオタク。『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』(香山リカ、北原みのり/イースト・プレス)は、フェミ=北原みのり、オタク=香山リカという立場から、世の中の事象に対して見解を語り合う対談集である。

 彼女らが互いの立ち位置を表明するために持ち出されるのが、あの1989年の連続幼女誘拐殺人事件だ。4歳から7歳の幼女を誘拐し、猥褻行為、殺人、死体損壊を行った宮崎勤は、事件の残虐性もさることながら、ビデオや漫画がぎっしり詰まった彼の“オタク部屋”の様子で世間に衝撃を与えた。

 事件当時、宮崎勤のコレクションにロリコン漫画やスプラッタビデオがあったことから、オタクバッシングが起こり、レンタルビデオ店の棚からはホラービデオが消えた。それに対し、知識人の多くはオタク擁護的な論陣を張り、表現の規制に対抗するというスタンスを取ったのだが、その一人が自分であったと、香山リカは言う。「私も宮崎擁護につながるような、ゲームやアニメ自体が悪いわけじゃないという原稿を書いたりしました」。

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 一方、北原みのりは、「あれだけの事件が起きて、小さい女の子が、小さい女の子故に虐待され殺されたのに、そのことの衝撃以上に、文化人たちが、なぜか表現の自由について語り、オタクを責めるなと論陣を張っていくさまが、怖かったですよ」と言う。

 ロリコン殺人者としての宮崎勤の蹂躙性が置き去りにされ、オタク文化論争の象徴としてのMくんにすり替わっていくことへの違和感を、肌で感じられる北原みのりに対して、事件を時代背景や社会的文脈でとらえる香山リカ…という両者のスタンスは、「女子高生コンクリ詰め事件」や「会田誠の女子高生ジューサーアート」などでも、わかりやす過ぎるほどのコントラストを見せる。

 例えば、コンクリ詰め事件の犯人が自分と同世代の男であったことに北原みのりは戦慄するが、香山リカは、その事件を生んだ背景を分析する解説者の視点に立つ。大勢の女子高生がジューサーにかけられる会田誠のアートを見た時、「怖くて動けなくなった」と言う北原みのりに対して、「制度としての美術館の中にある美術を見ても個人的な痛みは感じない」という香山リカ

 両者の差異は、フェミ/オタクとも言えるが、当事者/評論家とも言い換え可能だ。現実世界における当事者性を喪失することで「常に上から目線」を獲得した情報の総合体であるオタクと、超越的な目線で物事を判断する評論家は、論理の精度に差こそあれ、キャラの親和性は高い。現実世界における自分の性を根拠に、当事者性に傷つき続けることで「他者からの暴力」を告発する生身の存在たるフェミが、「当事者」なのは言うまでもない。もっと分かりやすく言えば、アートだろうがサブカルだろうが、どんな権力装置としての文化の中にあっても、嫌なものは肉体的にNOを感じられ、韓流アイドルの「ご飯食べてる?」には素直に萌えてしまう北原みのりはナイーヴで可愛いし、日常でも脳が白衣コスプレ状態で観察している香山リカは、女体から幽体離脱してBLを楽しむ腐女子目線だなあとも思う。

 そんなわけで、本書の9割ほどは、オタクとフェミの差異の見せ合いというか、そもそも両者は視点の位相が違うんだから、相性が悪いも何もないんじゃないかなあとか読んでいて考えさせてくれるのだが、な、な、なんと、あと3ページで本書が終わるというところで、いきなり2人の対談はガチのガールズトークの様相を見せるのである。

 そう、最終章になって、いきなり「めんどくさい女はどうやって男を見つけるか」というトピックが暴れ馬のように躍り出てくるのである。例えば、辻本清美、辛淑玉、みたいなバリタチ実装(実際の彼女らはヘテロだと思いますが)で闘う政治サイドの方とか、落合恵子、雨宮処凛みたいな、弱者やマイノリティーの代弁者として発言を続ける方とか、そういう立派な女性の活動家の方たちに対して、「頑張って発言をしたりする女性は幸せなんですかね?」と、唐突にリカちゃんが素発言で切り込むのである。このリカちゃん発言に、思わず「いやだ~。そういうこと聞くんですか(笑)?」と腰が引ける北原みのりだが、「人間としてパートナーとして向き合ってくれる男性がたくさんいるとは思えないじゃないですか」と、リカちゃんはグイグイ切り込む。いや、そこなんだよ。リカちゃん。正確には「たくさんいるとは思えない」じゃなくて、一人見つけるのも大変って話なんですがっ!

 で、「めんどくさい女はどうやって男を見つけるか」の話は、「外国に行くしかないのかしら」(by香山)「そうですよ! 飛行機に乗りましょう!」(by北原)という、わりとモテない女のあるあるな妄想トークに流れていくのだが、そこは、「どうして外国なら、めんどくさい女もありなのか?」ってのを詰めるところから、この議論は実りあるものになったと思う。わりと本気で。外国とか言っても、アジアもヨーロッパもあるのに、ざっくり「外国」なら、どんなめんどくさい女も何とかなりそうな気がするのは、乱暴な言い方をすれば、国をまたいじまえば、国籍ギャップでキャラ認識の精度が落ちるからである。

 例えば日本では、相手がどの程度の社会的階層に位置していて、どんな文化的クラスターの住人か、ちょっと話せばすぐにわかる。けれど、相手が外国人となれば、そう簡単にはいかない。日本では、即座にめんどくさい女認定されるようなタイプの人間でも、外国人から見れば、その属性は、まず「日本人・女」である。日本人同士ならこうはいかない。同じ国籍だし、性別も明らかだし、その部分の属性はプラス換算されず、まずキャラ分析に入る。「ああ、この女めんどくさい系」。そう認定されると、もう後はない。そういうバイアスがかかった状態でしか男と関わってこなかった日本のめんどくさい女が、外国に行けば、そりゃあ解放感があるのは当たり前だ。向こうはこっちを、まず「日本人・女」と認定するんだから。それだけで、夢の国に行ったような気すらするかも知れないよな。だはははは。でも、「人間としてパートナーとして向き合う」関係になるかどうかはまた別の話だ。そして、国をまたげば、性差とは別に国籍差という別のバイアスが関係に優劣をつけてくる。どうやっても、関係の力学からは逃れられないのか! とうんざりするんだが。ハア。

 詰まるところ、フェミもオタクも、いざ現実世界で男を見つけるとなると、どっちも「めんどくさい系」になってしまうわけで、国民的アイドルとやらの「性の商品化」も胸糞悪いし、「表現の自由」とか言って幼女を蹂躙する悪趣味もいい加減にしろや! とも思うけど、自分らの存在を蹂躙せず、胸糞悪い萌えキャラで興奮しない男はどこにいるのかって話になってくると、いきなり振り上げた拳が萎えちゃうんだよ……。そこをもっと2人には語ってほしかったな~、と「めんどくさい女」の一人として思う対談集であった。

文=ガンガーラ田津美