ヘアヌード写真はNGなのにヌード彫刻はOK? ヌードの秘密を解き明かす

文芸・カルチャー

2018/9/9

『ヌードがわかれば美術がわかる』(布施英利/集英社)

 ヌード。考えれば考えるほど、不思議なものだ。美術館に展示されている作品、ときにはレストランの壁に掛けられた絵画などでも、質の高い作品を目にすると、「美」という偉大なものに触れたような感覚になる。

 美術品としてのヌードには、年齢制限はない。しかし、週刊誌のヌード写真は多くの場合袋とじにされていたり、年齢制限がかけられていたりする。また、一般開放された施設に美術品としての裸婦像を設置しても文句を言う人はいないだろうが、これがポルノスターのヘアヌード写真だったら大問題となるのは目に見えている。なぜ、美術のヌードは許容されるのだろうか?

『ヌードがわかれば美術がわかる』(布施英利/集英社)という書籍は、こういった素朴な疑問を出発点とし、美術におけるヌードについて観察と解説をなすものだ。

一口にヌードといっても、時代ごとにその受容のされ方にも変遷がある。(中略)ヌードというと、男性の性的視線に晒された女性の裸、というものが考えられる(あるいは、考えられた)かもしれない。しかし、それとはやや違った切り口で、ヌードというものを考えてみたい。ヌードはもっと幅広い世界のものだ。(本書5頁)

 本書では、ヌードの神髄に迫るために、「母」「アンドロイド」「両性具有」「歴史(美術の)」「解剖学」という5つのキーワードが用意されている。本稿ではその一部をご紹介したい。

■ミロのヴィーナスに潜む男性の面影

 かの有名な彫刻「ミロのヴィーナス」について、本書はさまざまな切り口から解説を試みている。その中でも特に興味深かったのは「ミロのヴィーナスの両性具有性」という仮説だ。

(ミロのヴィーナスには)乳房など、女性らしい形も造形されてはいる。しかし発達した腹直筋。肩の僧帽筋(そうぼうきん)の分厚い塊。これは「男性の肉体」と見えないだろうか。男性が言いすぎなら、女性の肉体に、男性の肉体の要素も加味されている肉体であると見えないだろうか。(本書88頁)

 男性のように見える一因は、「男性像=裸体/女性像=着衣」という古代ギリシア美術における型にあると著者は指摘する。女性の裸体彫刻は、女性本来の姿形をベースにしているのでなく、より古く製作されすでに技術が洗練されていた“男性の裸体像”から出発しているのだという。

 言われてみると、なぜこんなにも男性性を感じさせるのか。美術批評家であると同時に解剖学者でもある著者は、脂肪の付き方の男女差を紹介している。

筋肉の形と構造は表面の凹凸を作るが、一般に男性の体では、脂肪がその凸の部分に付くことで凹がさらに強調され、筋肉の形がより体の表面から見えるようになる。いっぽう女性の体では逆に、筋肉の凹の部分に脂肪が付き、形が滑らかになり筋肉の凹凸が見えにくくなる。雪が降り積もって一面の景色を滑らかにするように、女性の体では脂肪が体の表面を滑らかにする。だから筋肉が明瞭な体は、男性的に見えてしまう。(本書90頁)

 なるほど確かに、と膝を打った。この知見は、今後のヌード美術鑑賞の手助けにもなってくれそうだ。これらの考察のまとめとして、「ミロのヴィーナス」は、あるがままの女性を描写したものではない、と著者は説く。

そこには女と男がミックスした両性具有の面影もあり、いろいろな動きにともなって生じる、あるいは生じない体の形の変化が混在し、異なった時代の様式も合体している。それが彫刻『ミロのヴィーナス』の造形的な特徴であり、美はそこから生じている。(本書94頁)

「ミロのヴィーナス」のこのような特徴は、同じくルーブル美術館に所蔵されているレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」と共通する点が多いらしい。そのポイントを探すことで、“普遍的な美の原理”も浮かび上がってくるのだという。

 本書は、このように多くの有名な美術作品とそれを取り巻く美術史、さらに解剖学の知識を加えながら、「ヌード」というものの奥深くへと進んでいく。冒頭で述べた疑問に対する答えのひとつとして著者は述べる。

「服を脱げば裸になるが、しかし必ずしも、それはヌードとイコールではない」

 あなたも本書を読み進めていくうちに、この感覚が少しずつ身についてくることだろう。謎めいた“ヌードの世界”をじっくりたっぷり楽しむための手引きとして、本書は必携の1冊だと感じる。

文=K(稲)