VR体験はリアルな経験におきかえられる!? VRの描く可能性とは…

暮らし

2018/9/13

『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』(ジェレミー・ベイレンソン/文藝春秋)

 最近バーチャルリアリティ(VR)を体験できる場所が増えているが、私はまだ試したことはない。そもそも仮想現実に興味がない。非現実を味わうなら映画や本の方がストーリーもしっかりしているし、仮想現実で何が起ころうとも実際の現実が楽しくなければ意味がないと思うからだ。

 だが、その考えは間違っているかもしれない。VRの没入感は今までのどんなメディアとも違っていて、VR経験は、たんなるメディア経験ではなく実際の経験だと理解したほうがいい場合が多い、と述べるのは本書『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』(ジェレミー・ベイレンソン/文藝春秋)の著者ジェレミー氏だ。

 ジェレミー氏はスタンフォード大学教授で、心理学、コミュニケーション学からのアプローチでVRを長年研究してきた、VR研究の第一人者だ。

 VR体験が実際の経験になる、その例のひとつがアメフトのスター選手、ケビン・ホーガン氏だ。2014年大会のその日、彼は相手チームの守備フォーメーションに微妙な変化が起きていることに気づいた。攻撃開始までわずか数秒だったが、当初のプランを捨てて別のランニング・プレイを実行した。彼はその日、こうした判断を何百回と繰り返し、チームの勝利に貢献した。

 なぜホーガン氏が一瞬にして作戦を変え、チャンスを生み出す判断ができたのかといえば、相手チームの奇襲作戦に慣れていたからだ。ホーガン氏はVRの練習プログラムの中で、彼らの奇襲作戦を数えきれないほど経験していたのだ。

 著者はVRとビデオの比較研究に関して太極拳を題材に行っている。2005年の実験なので今よりもVRの性能は落ちるが、VRによる訓練の効果はビデオより25%も高いという結果になった。これにより、著者はスポーツ選手向けの複雑な訓練も可能になるはずだと確信できたという。

『シドラの上にかかる雲』というVRドキュメンタリー映画がある。8分30秒にわたり360度視界を提供するこの映画は、観客をヨルダン北部のザータリ難民キャンプへ連れて行く。内戦で国を追われた8万人のシリア人が暮らす場所だ。

 この映画を観て著者は、仮設住宅が見渡す限りすべての方向に続く、茫漠たる空間の広がりをまざまざと感じたそうだ。8万人と言われてもただの抽象概念にすぎない。だが、VRによって砂漠に作られた巨大な仮設住宅の真ん中に自分で立った時、初めてこの難民キャンプの人口を表す数字の意味が実感できたという。

 映画が終わり涙をぬぐう観客が何人もいたが、何かドラマチックな展開が映画にあったわけではない。ただ日常の何気ない瞬間に立ち会うだけである。だが、この映画は間違いなく人々に強い感情を抱かせる。伝統的映画との大きな違いは、没入型の映像によって、自分も難民キャンプの人々と一緒にその場にいるかのような気にさせられる点だ。

 このVR映画の監督は、VRの特徴である強力な没入感こそ、他者の経験を共有し、自分と違う人々の生活を理解するのにうってつけだと断言している。「(VRは)人々をきわめて深く他人と結びつけます。(中略)これは人々の相互理解のあり方を変えうる力です。VRは世界を本当に変える可能性があると私は信じています」。国連の内部データによれば、VRドキュメンタリーを体験した人は、そうでない人の2倍の率で寄付をするという。

 医療器具としても活用が期待されている。たとえば、幻肢痛(失った四肢に痛みを感じる症状)患者や手足に麻痺のある患者に対し、問題の四肢を本当に動かすのではなく、動かすように思える“幻想”を見せるだけで、麻痺していた手足が動いたり、幻肢痛が軽減したりする可能性がわかっている。これをVRで補助するのだ。

 キャロル・P氏は脳性まひと筋失調症の患者だった。右半身の筋肉の収縮のせいで、右腕が肩から脱臼するようになり、痛みがひどく、できる限り右腕を動かさないようにしていた。VR治療では、キャロル氏はヘッドマウントディスプレイを装着し、仮想世界で自分の分身であるアバターの身体を一人称で見る。現実世界では問題ない左腕を動かすと、仮想世界では右腕が動く仕掛けになっている。

 キャロル氏は左腕を使い、仮想世界の右腕を動かす。だが彼女の脳は仮想世界の右腕を自分の身体の一部だと思い込んでいるので、自らが(脱臼している)右腕を動かしていると思い込む。

 数回の治療でキャロルの痛みは驚くほど小さくなった。右腕を動かして多少のエクササイズもできるようになったうえ、仮想世界で海の底に行くなど、現実世界で自由に動けなかったキャロルは、まったく新しい体験をして解放感を味わうこともできたのだった。

 VRの可能性ははかりしれず、使い道はまだ試行錯誤中だ。現実をよくする使い方もあれば、殺人ゲームなど悪夢をもたらす使い方もある。著者の専門分野である心理学、コミュニケーション学からの視点が興味深い。読み終わってVRのもたらす未来に心が踊った。近々、VRを体験しに行こうと思う。

文=高橋輝実