「活字離れ」ではなく「本屋離れ」!? 本屋と読書の再定義に挑戦する人々の奮闘記

文芸・カルチャー

2018/9/27

『もういちど、本屋へようこそ』(田口幹人/PHP研究所)

 今でこそ本の読み聞かせは、親が子供にするかイベントのようになっているけれど、歴史的には黙読することのほうが特異で音読するのが普通だった。以前は文字を読むというのは一部の貴人や学者などの特殊技能であったが、印刷技術とともに教育水準が向上したことにより現代においては個人で楽しむものとなった。そのため、現在ではネットの記事やSNSなどの文字は読んでも読書からは離れてしまったのだろうか。結果として、それが現在の出版不況を招き本屋が淘汰されることになったとすれば皮肉というものである。『もういちど、本屋へようこそ』(田口幹人/PHP研究所)では、そんな現代における「本屋」と「読書」について再定義することに挑戦する人々を取り上げている。

 本書には「本」に携わる様々な人が原稿を寄せたり、編者である田口幹人氏のインタビューに応じたりしているのだが、田口氏によると「本が売れない=本が読まれない」ではないという。そもそも「若者の活字離れ」が云われ始めたのは1977年頃のことで、それから約40年も経っているのだから、当時の若者が二十歳だったとして、すでに還暦を迎えている。そうなると活字離れも高齢化が進んでいるとなるわけだが、その一方で小学生から高校生までの読書量は1980年代から現在にいたるまで横ばいであり、あくまで「本屋離れ」だと述べている。

 寄稿しているジャーナリストの石橋毅史氏は、秋田県横手市の書店を訪れたとき、平日の午前中に中学生が制服のまま漫画を立ち読みしている光景に遭遇したという。その中学生を誰も咎めないし、漫画本はビニールパックをしていない。店主によると書店で過ごすことを習慣化するために「立ち読みは歓迎」だそうで、学校へ行きたくない子供が誰にも目につかない場所にいるより、地域の皆が知っている書店で過ごしてくれたほうが安心というコンセンサスがあるらしい。思えば私が子供時代に書店に立ち寄ることが少なくなったのは、漫画本にビニールパックがされるようになってから。それまでは立ち読みで気に入った作品があれば、お小遣いを貯めて全巻まとめ買いをしていたのが、新しい作品を試す機会が減ってしまった。

 本と読者との出会いをつくる場として、喫茶店や雑貨コーナーを併設している本屋もあるものの、それは利益の少ない本の販売の穴埋めを他の物販で穴埋めしているのが実態だったりもする。取次から仕入れた場合の書店の取り分は22%ほどしかなく、それが書店の経営を困難にしているのだが、客に本の魅力を伝え買ってもらう本来の本屋の姿に立ち返ろうと、出版社から直接仕入れて「書店の取り分は三割」を目指している書店もあるそうだ。ただし出版社との交渉が大変だし、応じてもらえたとしても仕入れや返品を出版社ごとに処理するのに手間がかかるため、なかなかに難しいようである。

 もちろん、経営の穴埋めとして本屋を別の業態にしているという単純なものでもない。書店が一軒も無い「書店空白地」をなんとかしようと、本の販売を極限まで簡易にすることにより、生花店やアパレルショップなどと結びつけ、来店客の滞在時間を延ばしてメインの商材の購買を促すというビジネスプランを展開している取次会社もある。

 また、軽トラックの荷台に本と本棚を積んで「走る本屋さん」を経営している人は、地方の読書会に参加した子供から本を「どこ行けば買えるの?」と訊かれて「どこの書店でも置いてあるよ」と答えたところ、そこは書店空白地のため「本は借りるものというのが常識」となっていることに強い衝撃を受けたことから事業を始めたそうだ。

 先の石橋氏は、「屋」という言葉は「照れ屋」や「頑張り屋」などと、その人特有の性格や振る舞い、もっと云えば生き方に用いられることもあり、「本屋」とは本を人に届ける「人生を送っている人」と述べていた。恐竜は絶滅したのではなく、鳥類に進化して現代にも生き延びているという説があるように、本屋もまた絶滅することは無いのかもしれない。

文=清水銀嶺