人生でつらいことがあったら… 「こころ傷んでたえがたき日」に明かりを灯す1冊

暮らし

2018/10/2

『こころ傷んでたえがたき日に』(上原 隆/幻冬舎)

 NHKの「ドキュメント72時間」が筆者は好きだ。喫茶店やバスターミナルなど、定点観測ポイントに72時間、カメラを固定。訪れた人々が自身の人生を語る。人の数だけいろんなドラマがある。

『こころ傷んでたえがたき日に』(上原 隆/幻冬舎)もまた、市井の人々の悲喜こもごもが味わえる1冊だ。収録された22本のエピソードは、『正論』に今年3月の連載終了までの9年間に、著者が書いた100本から選りすぐったもの。

 ちなみにタイトルは石川啄木のこんな歌からとっている。

ゆゑもなく 海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みて たへがたき日に(『一握の砂』所収)

 つまり、人生でつらいことがあったら(もちろんなくても)読む本なのである。

■60年間、休まず新聞配達を続けた男性の宝物とは?

 本書より、「新聞配達六十年」と題された1篇を紹介しよう。

 京都市左京区にある朝日新聞販売所のアルバイト配達員、国枝晃二さん(74取材当時)が主人公だ。著者は配達にも密着し、インタビューと交え、国枝さんの人となりや人生模様を紡ぎ出す。

 新聞配達を始めたのは14歳のとき。父が戦死。母子家庭となり家計を支えた。以来60年間、いまも朝刊は休まず配達しているというから驚きだ。

 というのも国枝さん、高校卒業後は就職し、現在は人気電気店の店主という本業もある。にもかかわらず、配達員はずっと続けた。その理由は、国枝さんが頼りになるため、「辞めないでくれ」と懇願され続けてきたから。頼まれると断れない性格。もはや、お金のためではない。

 本業もこなしながら、毎朝午前2時30分出勤の生活を60年。ふつうの人にはできない。しかも国枝さんには、辞めて当然の苦い経験もある。中学生当時、お金に困っていた弱みに付け込まれ、「配達区間を倍にすればもっと稼げる」と誘われ同意した。しかし賃金は微増しただけだった。それでも、店への感謝の思いから辞めずにいる。まさに無私の人、頭が下がる。

 著者の「六十年続けたことで得られたことがあったら教えてください」という問いに、「毎日毎日の充実感ですね」と言い、国枝さんはある箱を差し出す。著者が開けると、中には60年分の給与明細。そしてこう語る。

「人には紙くずかもしれんけど、これは六十年、毎日働いてきたことの証。僕にとっての宝物やと思ったんです」。人間国宝にすべき好々爺だ。

■ダ・ヴィンチニュース読者ならだれもが知る、あの大作家の若かりし日の様子

「彼と彼女と私」と題された1篇は、本書唯一のダブルキャスト作品。著者が取材するのは、都内で絵本・児童書などを販売する男性。だが語られるのは、その男性の近所に越して来て、ジャズ喫茶を始めたある若夫婦との交流の想い出である。

 読み進めていくと、その若夫婦の夫こそ、その後に、世界に名を馳せる人物(名はあえて伏せられている)となることがわかる。ダ・ヴィンチニュース読者ならだれもが知る、あの大作家の若かりし日々。それがこの1篇の隠しテーマだ。

 本書には他にも、ずっと真面目だったのにギャンブルがきっかけでホームレスに転落した男性の一方、若い頃は逮捕歴も背負った不良だったのに、その後更生して4人の子どもをしっかりと育てるシングルファーザーも登場する。

 また、10万人に1人の難病・クローン病を患う青年と母の愛の物語や、父と母の老々介護をサポートする著者自身の体験談他、涙と笑い、たくましさとせつなさが交錯し、人情や愛に心が温かくもなる。

 しかし、やり場のない憤りが、心の奥底から込み上げてくるエピソードもある。それが「娘は21のまま」という1篇だ。

 主人公は、東京・葛飾区柴又在住の小林賢二さん(69取材当時)と奥さんの幸子さん。2人が語るのは次女、順子さん(享年21歳)の想い出である。

 家ではお母さんによく甘えたが、学校ではリーダーシップを発揮するタイプだった順子さん。1996年9月9日。当時上智大学生だった順子さんは、2日後に迫った米国留学のための準備を自宅でひとり行っていた。新しく始まる生活に、胸を躍らせていたことだろう。

 しかし夕方、小林家に強盗犯が侵入。順子さんを殺害し、家に火を放つ。順子さんの夢もそして人生さえも、無慈悲に理不尽に、たった45分間(推定犯行所要時間)の間にすべてが奪い去られた。

■「時効廃止法案」を成立させて殺人犯に一矢報いた被害者遺族の悲しみ

 犯人は2018年8月現在、まだ捕まっていない。「いまもどこかで同じ空気を吸っているんですよ」と賢二さんがつぶやく。

 3年後に時効が迫った2008年、賢二さんは知人を頼りに連綿と人脈をつなげ、最後は国会を動かして2010年、「時効廃止法案」を成立させて犯人に一矢報いた。

 しかしそれでもこの先、犯人が捕まり極刑が下ろうとも、小林家にかつての幸せが戻ることはない。短絡的な無差別殺人強盗という悪魔の所業に手を染められる人間への憎悪が込み上げてくる。

 他者のドラマから、人生の労苦、エールや感動、教訓などを得たいという方はぜひ、本書を手にしてみてほしい。そして何かを感じたら、他者のドラマと割り切らずに、わが身のこととして思いを馳せ、何ができるかを考えてみてはいかがだろうか。

文=ソラアキラ