悪趣味・鬼畜系が溢れた90年代サブカル―正しく当時を振り返るために

文芸・カルチャー

更新日:2019/4/8

『90年代サブカルの呪い』(ロマン優光/コアマガジン)

 90年代とは不思議な時代だった。鬼畜系と呼ばれるジャンルが生まれ、多くのメディアが過激な特集を組むようになっていた。死体写真や特殊AV、ロリコン文化が普通にまかり通り、宅八郎や蛭子能収といったクセの強い人々もテレビ出演を果たすようになる。2019年現在、90年代サブカルのほとんどは人々から忘れ去られた。しかし、一部のYouTuberに代表されるような「面白ければ何でもいい」といった感覚は、90年代に生まれたといっていいだろう。

 90年代サブカルを今、どのように語るべきかは非常に難しい問題だ。倫理的には完全に間違っている作品・人間が多いものの、現代の視点から一方的に糾弾するのもフェアではない。それなら、当時のブームを肌で知っている人物に語ってもらえばいい。『90年代サブカルの呪い』(ロマン優光/コアマガジン)は、ミュージシャンであり作家としても活躍するロマン優光氏が、「正しく」90年代の狂騒を振り返る一冊だ。

 そもそも、90年代サブカルの中心だった「鬼畜系」とは何なのだろう? 反社会的でショッキングな内容を指しているように見えて、実は、その定義は曖昧である。著者も「悪趣味系と表現した方がいい」と書いているほどだ。そのうえで、提唱者である故・村崎百郎氏の「徹頭徹尾加害者であることを選び、己の快楽原則に忠実に生きる利己的なライフスタイル」という説明が引用されている。もっとも、これは村崎氏個人の定義であり、すべての鬼畜系ライターにあてはまるともいえない。

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 事実、鬼畜系ライターたちの活動は十人十色だった。ゴミ漁りをライフワークにしていた村崎氏、障害者や犯罪者をときにコミカルに取り上げた漫画家の根本敬氏、ムック『危ない1号』(東京公司/データハウス)で性犯罪や変態をレポートした青山正明氏などなど。21世紀では考えられない取材が人気を呼んだ背景として、著者は90年代の空気を挙げる。「綺麗事が蔓延」しているのに、「本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている」時代で、鬼畜系はカウンター・カルチャーとして受け入れられたのだ。

 また、過激な方法論で撮影を行ったバクシーシ山下、徹底的に下品なエロを追求した平野勝之などのAV監督も鬼畜系と共振していたといえるだろう。ここで名前が挙がったライターやクリエイターの作品は賛否両論ありながらも、現在まで根強い支持者がいるのは事実だ。ただ一方で、彼らには少なくとも存在していた「作家性」もないまま、行動だけを暴走させていくフォロワーも現れ始める。AV女優の了承がない撮影で後遺症を負わせてしまった「バッキー事件」、コンビニのポットに糞尿を入れるなどの犯罪行為を商品化していた某ビデオなどは、90年代の闇でしかない。

 村崎氏や根本氏は異常な行為を観察しても、それ自体を推奨していたわけではなかった。しかし、鬼畜系がブームになることで、理解力の足りない人間までもが参入し自己顕示欲のためにひたすら不愉快なだけの表現活動に走ってしまう。90年代サブカルを語るとき、中心人物の信念と便乗しただけのゲスなメディアを混同するべきではないだろう。

 また、著者はこうも分析する。

90年代サブカルの問題点というのは、90年代の時代性が反映されている場合が多く、全般的な人権意識の低さ、メディアリテラシーのなさ、男尊女卑性といった部分はそこだと思っています。だからといってサブカル無罪というのではなく、今から見ればサブカル含め90年代のもの全部有罪になるでしょう。

 

90年代サブカルの中にも、人間や社会の真実を訴えかけていた部分はあった。しかし、同じことは違う方法論でもできるはずではないか。本書は、ひとつの文化をひたすら肯定するわけでも否定するわけでもない。ただ、意識をアップデートしていくために必要な検証を行っていこうと呼びかけているのである。そして、それは90年代サブカルに限ったことではないだろう。

文=石塚就一