「平均的な人間」は実は存在しない! 他人の普通と自分を比較して悩んでいる人へ

ビジネス

2019/4/25

『ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい』(トッド・ローズ:著、小坂恵理:訳/早川書房)

「普通じゃ嫌」
「普通になりたい」

 私は「普通」について長年悩んでいる。私ほどこじれていないとしても、多くの人は「普通」と自分とを比べて悩むものだと思う。世界には身長、体重、IQ、成績などあらゆる物事の平均値があり、そこから私たちは頭の中で「普通の人間像」を組み立てている。そしてその普通の人間と自分を比較して、その差異から「自分すごい」「自分ダメだわ」と判断をすることは、ある程度自然な思考の働きだろう。

『ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい』(トッド・ローズ:著、小坂恵理:訳/早川書房)は、この「普通」をイメージする際によく使われる「平均」について解説する1冊。先に結論めいたことを言ってしまうと、平均というのは単なる数値であり、平均値に当てはまる人間は実在しないというものであり、まさに目から鱗なのだ。では、その説明内容を少し覗いてみよう。

■平均は後から発明されたもの

 人類史、数学史、科学史の長きにわたって、「人間はあまりにも統一感がなくて、分析不可能だ」と考えられてきた。ところが、19世紀初頭、ひとりの天文学者が、人間の社会的行動にも、ある一定のパターンがあるのではないかと閃く。ここに、運良く当時のヨーロッパの国家システムが味方した。戸籍などのかたちで国民のデータを吸い上げ始め、史上初めて「ビッグデータ」を持った国家体制だ。そこでケトレーは提案する。「データの平均値を使って個人を評価するのが公平かつ科学的である」、と。当時の科学者や学校、会社は、これを大歓迎し、史上初めて「平均的な人間」という概念が生まれたのだ。

■みんなと同じことで秀でる社会システム

 20世紀が幕を開ける頃には、この評価方法は社会のすみずみにまで浸透し、生涯における友人の数やキスをする恋人の数まで、平均値が計算された。そして、悲しいことに、人は自分の持ち物や経験数が平均数より少ないとわかると、反射的に恥や劣等意識を感じてしまう生き物らしい。そのため、人生のあらゆる場面で「みんなと同じになるための競争」に身を投じ、平均値を求めて奮闘してしまうというわけだ。

 現在、ハーバード大学で入学事務を務める人物は、本書の著者に次のように打ち明けている。
「(学生たちは)みんなと同じようになるために、ユニークな個性を捨て去ってしまう」

 要は、私たちは皆と同じようなことをして、その中でみんなより良い点数を取ろうと足掻いているというのだ。大学の偏差値は人間性の優劣には関係がないことは自明だ。それにもかかわらず、私たちは、年収、入社試験、大学のランクが繋がっていることを知っていて、状況的に可能ならばより上位校への進学を希望する。

 これは無意識的になのかもしれないが、平均値よりどれだけ上かという、わかりやすい優越感や安心感を得るためなのだろう。社会は、個性を殺してでも同じ土俵で戦わなくてはならないという構造になっているのだろう。ちなみに、私は時々「私は自分の土俵で生きる」と息巻いているが、成功したためしはない。すでに回っている社会システムに抗うのはとても骨が折れる。

■フィットすれば機会は創造される

 著者が言うように、社会が平均以上を目指すゲームをベースにしているとして、そのゲームルールについていけない人はどうやって生きていけばいいのだろうか?

 本書によれば、たとえば字を読むのが苦手な子どもの場合は、みんなと歩む道やペースを少し変えればよい、同僚にどうしても嫌がられてしまうという人は別の職場環境を用意すればよいという。つまり、その人個人に合った環境を用意すれば、能力は発揮されるというのだ。

 著者はこれを「フィットすれば機会は創造される」と表現し、成功例として米空軍の飛行機の例を紹介している。平均的なサイズで作られていたコックピットを、パイロット個人に合わせた大きさに変えた例だ。軍はこれにより危機的状況からの生存率を上げている。

 まずは、教育や人事の面からどんどん取り入れて欲しい「個人への環境フィット」。本書を通して得られるのは、「普通なんて幻想だ」ということに気づかせてくれることだ。比較対象が存在しないとなれば、悩みそのものもまた幻想ということになるのだから。

文=奥みんす