日本の死刑制度は「慎重さ」に欠ける? 外国人から見た矛盾点とは

社会

公開日:2019/7/27

『アメリカ人のみた日本の死刑』(デイビッド・T・ジョンソン:著、笹倉香奈:訳/岩波書店)

 2018年7月。松本智津夫らオウム真理教の元幹部たち7名の死刑が執行され、世間では大きな議論を招くことになった。しかし、執行のタイミングについての賛否はあっても、そもそも死刑制度自体への批判はほとんど生まれなかったように思う。日本の裁判では当然のように死刑が選択肢にあり、検察も被害者遺族も加害者に死刑を求めることは珍しくない。

 ただ、死刑とはそんなに身近な制度で許されるのだろうか? 事実、先進7カ国で死刑制度が残っているのは日本とアメリカだけだ。しかも、アメリカは州によっては完全に死刑を廃止している。紹介する一冊、アメリカ人による『アメリカ人のみた日本の死刑』(デイビッド・T・ジョンソン:著、笹倉香奈:訳/岩波書店)は、日本の裁判システムに疑問を呈する内容となっていた。

 著者デイビッド・T・ジョンソン教授はハワイ大学で社会学を研究している。これまでも日本の法制度の矛盾を題材に書籍を発表しており、高く評価されてきた。本書でも鋭い分析とデータを挙げながら、果たして日本における死刑が正当な刑罰といえるのかを解き明かしていく。

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 著者がもっとも疑問を感じているのは「日本の死刑は特別ではない」ように見えるからだ。著者は12の根拠から、日本の死刑宣告が慎重さに欠けると指摘する。たとえば、「量刑だけを判断する独立の手続きが存在しない」のは、アメリカ人の感覚ではありえないことだ。アメリカでは有罪か無罪かを争う段階と、量刑を判断される段階の二つに分かれて裁判が行われるからだ。「死刑を求める被害者の声が事実認定をゆがめている」のも危険だという。ときには、事実がはっきりと認定されていない段階で、被害者遺族の陳述が判決に大きな影響力を持つことがあるからだ。なお、著者は日本の法廷で、涙を流す人の多さに衝撃を受けた。日本の裁判とは、誰もが感情に支配されて量刑が判断される場なのである。

 冤罪も死刑制度の是非を問う上では無視できない。「袴田事件」をはじめとして、死刑囚の冤罪事件は後を絶たないからだ。なお、袴田巌氏はあくまで刑務所から釈放されただけであり、判決が覆って無罪になったわけではない。裁判所や警察、検察が誤りを認めないのもアメリカとの違いだと著者は説く。アメリカでは「法も間違える」という前提のもと、誤りを減らすための対策がとられてきた。客観的事実だけを根拠に裁判を進めていこうとするのは、感情論で真実を曇らせないためである。しかし、日本では「法は間違えない」という考えが根強い。そんな国でどれだけの無実の人が死刑になってきたのかと想像すると、恐ろしいものがある。

 遺族感情に寄り添うのであれば、「残虐な加害者を死刑に」との主張にも共感できなくはない。むしろ、日本人の約8割が死刑制度を受け入れているのも、遺族を思いやり、加害者を憎む気持ちがあるからだろう。

死刑はつまるところ復讐であると認識されなければならない。しかし復讐は極刑を正当化するものではない。復讐は凶暴な感情であり、大義名分である。したがって、それは復讐心を持つ人自身にとっても危険である。

 復讐を成し遂げたところで遺族が救われるわけではない。死刑制度によって遺族の復讐心が増長しているのだとすれば、果たしてそれは本人たちのためになっているといえるのか。

 著者は人気小説家の発言を引用しながら、日本人の大半が死刑制度について「やむを得ない」と感じていると述べる。そして、決して珍しい判決ではなくなっているにもかかわらず、深い議論が公の場でなされないまま今日を迎えてきた。判決のプロセスも執行のタイミングも不透明なまま、「なんとなく」死刑が認められてきたのである。本書は、そんな日本の空気に染まっていない外部の研究者だからこそ可能だった問題提起だといえるだろう。死刑についてさまざまな意見があってもいい。ただ、語ることすら憚られるような状況を変えていかなければ、死刑制度の矛盾点は残されるだけだ。

文=石塚就一