性別とは一体なんなのか。病気によって女の子になってしまった男子小学生を描く、『オレが私になるまで』

マンガ

公開日:2019/12/6

『オレが私になるまで』(佐藤はつき/KADOKAWA)

 多様な生き方を尊重しようという時代の流れもあり、「性別」について考える機会が増えた。性というものはグラデーションであり、男性と女性のふたつにくっきりとわけられるものではない。男性として生まれたものの、女性装が好き。性自認は女性だけれど、性愛の対象も女性。あるいは、どちらの性にも属さない。これは決して珍しい話ではない。

 ところが、いまだに人を男性か女性かでわけようとする人たちは少なくない。そして、男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、といった「べき論」によってカテゴライズする。それは乱暴な話だ。そんな人たちに読んでもらいたい一作がある。

 『オレが私になるまで』(佐藤はつき/KADOKAWA)。本作はごく平凡な男の子が、ある日突然女の子になってしまった、という物語。設定こそファンタジーだが、そこに描かれているのは、現代の性に対する問題提起だ。

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 主人公は男子小学生のアキラ。女子生徒をからかうやんちゃなところはあるものの、野球ごっこやカードゲームが大好きな、どこにでもいる男の子だ。そんなアキラがある朝目覚めると、女の子の身体になっていたところから物語は始まる。

 彼が罹患したのは、「突発性性転換症候群」という病気。原因も治療法も不明で、いまのところ対処ができないという。そんなアキラを同級生の男子たちはからかい、女子生徒は距離を置こうとする。結果として、アキラは誰も知らない土地へ転校し、「本当は男であること」を隠し、生きていくことを余儀なくされる。

 それはアキラが小学5年生になったときのこと。宿泊研修の晩、トイレで用を足していたアキラに衝撃的な現実が襲いかかる。それは「初潮」だ。それまで「いつか男の身体に戻るんだ」と思っていたアキラにとって、その事実は「もう戻れない」という宣告に近いものだった。性自認は男のままなのに、身体は女性として成長していく。そのギャップからアキラは大粒の涙をこぼす。

 この描写は、実際に性同一性障害で苦しむ人たちのそれと重なるのではないだろうか。肉体的な性と精神的な性が一致しない、自分ではどうしようもない苦しみ。アキラの涙は、彼らの涙そのものだ。

 しかし、そんなアキラにやさしく手を差し伸べるのが、同級生の瑠海だ。彼女は戸惑うアキラに声をかけ、なだめる。そこからふたりは急激に距離を縮めていく。

 瑠海という友達ができたことで、アキラの日常にも変化が訪れる。彼女はアキラに「女の子らしい格好」をさせようとするのだ。しかし、アキラもそれを受け入れる。リボンをつけてもらい、髪型をアレンジしてもらう。そうやって可愛くなった自分に驚きつつも、嫌な気持ちにはならないのである。

 けれど、そんなアキラの姿を見て、家族は拒否反応を示す。彼らの根底にあるのは、「アキラは男の子として生まれたのに」という想い。突発的な病気によって女の子になってしまったが、本当のアキラは男の子なのだ。そんな気持ちから、母親も祖母も、アキラが可愛い格好をしていることを受け入れない。

 もちろん、家族の気持ちも充分理解できる。彼らは良かれと思って、いつまでもアキラを男の子扱いしているのだ。でも、それもまた穿った見方なのではないだろうか。男の子が可愛いものを好んだって悪くない。女の子と仲良くしていたって悪くない。そして、成長にともない、性が揺らめいていくことだってある。始めこそ自分の変化を受け入れられなかったアキラが、徐々に女の子として生きていこうとするように。

 大切なのは、男性・女性といった性別に縛られることなく、「自分自身がどうしたいのか」ではないだろうか。本作で言うならば、アキラがどう生きていきたいのか。それは周囲が決めつけることではなく、本人が迷いながらも見つけていくことなのだ。

 ただし、第1巻のラストシーンを読んで、希望のようなものも感じた。ヘアアレンジをし、スカートを穿き、女の子の格好をして出かけようとするアキラに対し、祖母が「それ似合ってるよ」と声をかけるのである。そしてアキラは、満面の笑みを浮かべる。

 本作で描かれるアキラの姿は、性で悩む人たちの葛藤をそのまま写し取っているわけではない。そもそも、設定自体がファンタジーだからだ。けれど、これを絵空事だとは笑えない。現実の問題をフィクションに落とし込んでいるからこそ、伝わる強さがある。

 男の子として生まれ、女の子として生きていくことを決意したアキラ。彼の生き様を通し、実に不確かな性というものについて考えてもらいたいと思う。

文=五十嵐 大