「恋愛、向いてなかった…」恋愛感情のないゲイの夫(仮)と“偽装結婚”した能町みね子さんの「結婚への道」

恋愛・結婚

2020/2/21

『結婚の奴』(能町みね子/平凡社)

 能町みね子さんが、ゲイのサムソン高橋さんと「偽装結婚」した経緯を綴ったエッセイ『結婚の奴』(平凡社)。感想を一言でいうと「これでもいいんだ」であった(余談だが、刊行直後に能町さんは『これでもいいのだ』(中央公論新社)というエッセイ集を刊行したジェーン・スーさんと対談している)。生活や仕事をたてなおすために誰かと同居したほうがいいのではないかと考えはじめた能町さん。だが、まわりの人はみんな結婚しているし、自分が恋愛や交際に不向きなことは自覚している。だったらお互い恋愛対象にならない人と形だけの結婚をしたらどうだろう、というのが事の発端だ。

「ウェブ平凡」連載時のタイトルが「結婚の追求と私的追究」であったとおり、本書は能町さん自身の結婚観や恋愛観を追究する内容にもなっている。個人的に打たれたのはこの文章。

<誰にでも恋愛を勧める世の中がそもそも間違いなのだ。(略)私はただ向いてなかっただけなのだ。うっかり人生に必須なものかと思って、何回も何回も試してしまったよ。>

 ああわかる…と思った。私自身、恋愛を不要とは思っていないけれど、とくに必要としていない時期に、誰かを好きにならなきゃいけないんだと焦り、誰にも好きになってもらえない自分に落ちこみ、右往左往と黒歴史を重ねたことがある。あんなこと、しなくてもよかった。したからこそ今があるというのは詭弁で、べつにしなくたって幸せになれた。未だに思い出してはいたたまれなくなる羞恥が、この文章ですこし和らいだ。

 サムソン高橋さんと、デートっぽいこと、婚約っぽいこと、結婚っぽいこと、を重ねていく能町さんはとても楽しそうだ。<このくらいの(子供のような「恋愛プレイ」の)感じが必要にして十分だったんだ>と自覚する場面がある。手に手を取り合って死がふたりを分かつまで人生を共有する、のではなくて、ともに暮らすにはほどよく心地のいい人と、ときどきごっこ遊びのようにイベントだけ楽しめればいい。その形を肯定してもらえることは、多くの人が背負っているものを軽くしてくれる気がする。

 本書では、2016年に急逝された雨宮まみさんについても語られる。能町さんにとってあまりに大事で繊細な記録なので、うかつに言葉にすることはためらわれるのだが、誰より大切な人がそれまでの矜持を捨て去るように、あっけなくこの世を去ってしまったことに能町さんは悲しみよりも怒りを覚える。そして、雨宮さんのことを考え続け、<自家中毒のような一喜一憂>をくりかえしたのちに、こんなことを思うのだ。

<なんてバカバカしい心の動きだろうか。改めて強く思う、なんでこんな幼稚な、人を愚かにさせ、視野を狭くさせる感情を世間は称揚しているのか。(略)二度とこんなことするものか。>

 それは、さまざまな形でアプローチを試みた、恋愛に対する決別だったのだろう。能町さん自身が語るように、雨宮さんへの想いはまさに「恋」だったのだろうと思う。恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたもの、といったのは芥川龍之介だけれど、自分も相手も毀しかねない執着や同化の欲望こそが恋であるような気がする。愛し愛され、紡がれていく永遠も確かに素晴らしい。けれどそんな幻想は、少なくとも自分には不要だと投げ捨て、自分を穏やかに保つための生活を手に入れるために選ぶ“偽装結婚”という形は、ある意味でとてもまっとうなものじゃないだろうかと思う。むしろ結婚って、本来はそのためにあるものなのでは、とさえ。

 誰と一緒にいたって、根本的なさみしさは一生消えない。絶望にひとりで耐えねばならない夜もくるだろう。でもともに過ごすひとがいるだけで和らいでいくものがある。その相手に恋をしていなくても、唯一無二の存在でなくても。さみしさと安心をいったりきたりしながら、ありふれた日常を積み重ね、きっと私たちは生きていく。

文=立花もも